霊界物語 初心者向け 第10巻 総説歌
出口王仁三郎著 霊界物語 霊主体従 第10巻 総説歌
(大正11年2月27日 竜宮館 王仁 識)
(聖師が初心者向けには、この章から読むのが良いと推薦されているのがこの総説歌です。 ぜひとも味わって下さい。)
世は常闇となり果てて 再び天の岩屋戸を 開く由なき今の世は
心も天の手力男 神の御出まし松虫の 鳴く音も細き秋の空
世の憂事を菊月の 十まり八つの朝より 述べ始めたる霊界の
奇しき神代の物語 三つの御魂に因みたる 三筋の糸に曳かれつつ
二度目の岩戸を開き行く 一度に開く木の花の 色香目出度き神嘉言
常世の国の自在天 高く輝く城頭の 三ツ葉葵の紋所
科戸の風に吹きなびき 思想の洪水氾濫し ヒマラヤ山頂浸せども
明の鳥はまだ啼かず 長鳴鳥も現はれず 橄欖山の嫩葉をば
啣みし鳩の影もなし 天地曇りて混沌と 妖邪の空気充ち充ちて
人の心は腐りはて 高天原に現はれし ノアの方舟尋ね侘び
百の神人泣き叫ぶ 阿鼻叫喚の惨状を 救い助くる手力男の
神は何れにましますぞ 天の宇受女の俳優の 歌舞音曲は開けども
五つ伴男はいつの日か 現はれ給ふことぞかし つらつら思いめぐらせば
天の手力男座しませど 手を下すべき余地もなく 鈿女舞曲を奏しつつ
独り狂へる悲惨さよ 三五教の御諭しは 最後の光明とどめなり
ナザレの聖者キリストは 神を楯としパンを説き マルクス麺麭もて神を説く
月照彦の霊の裔 印度の釈迦の方便は 其侭真如実相か
般若心経を宗とする 竜樹菩薩の空々は これまた真理か実相か
物理に根ざせる哲学者 アインスタインの唱へたる 相対性の原理説は
絶対真理の究明か 宗教学者の主張せる 死神死仏を葬りて
最後の光は墓を蹴り 蘇へらすは五六七神 胎蔵されし天地の
根本改造の大光明 尽十方無碍光如来なり 菩提樹の下聖者をば
起たしめたるは暁の 天明閃く太白星 東の方の博士をば
馬槽に導く怪星も 否定の闇を打破る 大統一の太陽も
舎身供養の炎まで 残らず五六七の顕現ぞ 精神上の迷信に
根ざす宗教は云ふも更 物質的の迷信に 根ざせる科学を焼き尽し
迷へる魂を神国に 復し助くる導火線と 秘かに密かに唯一人
二人の真の吾知己に 注がむ為の熱血か 自暴自爆の懺悔火か
吾は知らずに惟神 神のまにまに述べ伝ふ 心も十の物語
はつはつ爰に口車 坂の麓にとどめおく あゝ惟神々々
御霊幸はへましませよ
(総説歌、後半もあります。 続きの原文は愛善世界社刊 注釈付き文庫判をお読み下さい、アマゾン、ジュンク堂書店などで取り扱っております。)
(文中の竜樹菩薩とは、龍樹の空理論で有名になった、2世紀にインドに生まれた大乗仏教の祖です。 聖師の見識の広さが偲ばれます。以下龍樹の紹介文です。)
「空」の理論の大成は龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。なお、伝統的に龍樹の著作とされるもののうち『中論(頌)』以外に、近代仏教学において龍樹の真作であるとの見解の一致が得られている作品はない。
龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。この因果関係を釈迦は「縁起」として説明している。(龍樹は、釈迦が縁起を説いたことを『中論』の最初の帰敬偈において、賛嘆している)
さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証しているのである。龍樹の「空」はこのことから「無自性空」とも呼ばれる。
しかし、空である現象を人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に知覚するということだけではなく、概念や言語を使用することが考えられる。龍樹は、人間が空である外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。
この説を、既成概念を離れた真実の世界と、言語や概念によって認識された仮定の世界を、それぞれ第一義諦 (paramārtha satya) と世俗諦 (saṃvṛti-satya) という二つの真理に分ける。言葉では表現できない、この世のありのままの姿は第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは世俗諦であるとする、二諦説と呼ばれる。
無我説を固定化してしまった結果として主体の存在概念が捉えられなくなっていた当時の仏教の思潮[要出典]を、龍樹は「無」と「有(有我説)」の中道である「空」(妙有)の立場から軌道修正した[要出典]ということである。
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