明治維新を正しく理解しよう!
1833年~1839年 天保の大飢饉
1836年 桐村なお(開祖)誕生
1853年 なお、叔母出口ゆりの養女となる。ペリー来航。
1855年 なお、四方豊助と結婚。豊助は出口政五郎を襲名。パリ万国博覧会、安政江戸地震。
1858年 安政の大獄で吉田松陰が斬殺され、伊藤俊輔(17才)が小塚原に遺体を引き取る。遺体を清める異常な体験から、テロリストへ変貌する。
1860年 桜田門外の変。
1861年岩倉具視は和宮を将軍家茂へ降嫁させたが、幕府へ売ったと裏目に出て1862年孝明天皇(北朝)から蟄居を命じられ、保身の為、倒幕派に身を置き、孝明天皇の排除を画策した。
1863年に伊藤博文は長州ファイブとして英国へ密航留学し化学を学び後、処刑を命じた幕府倒幕(攘夷)そして幕府を支持した孝明天皇の暗殺(1866年)を実行したとされる。上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させ、薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。
1864年 禁門の変で御所は被弾し、睦仁親王は卒倒失神される。坂本龍馬の斡旋で有栖川宮(北朝)が教育係となり、元服を迎える。1866年12月孝明天皇が崩御、翌年15歳で122代天皇の座に就く。
1867年7月睦人親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。明治天皇の勅裁には伊藤が意のままに作成できた。大正天皇には子種がなかった。
1868年(慶応4年)1月、小御所会議、朝廷と新政府は、各国公使に向けて「王政復古」を通告。<明治維新>
聖師は明治維新を王政復古でなく神政復古にすべきだったと語っている。
1868~1869年 戊辰戦争
1870年 上田喜三郎(聖師)誕生
1877年 西南戦争
1899年公爵毛利元徳(もとのり)の八男が、伊藤博文の仲介により、公爵西園寺公望の養子となり西園寺八郎と名乗り、死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた。伊藤博文は権力者として、明治天皇から昭和天皇までデッチ上げたことになる。聖師は明治・大正・昭和・平成後を金・銀・銅・泥と預言されている。
1921年、第1次大本事件は宮中某重大事件(1920~1921)で、聖師が鶴殿親子より皇室へ、問題なしと伝え、伊藤後の権力者山縣有朋が失脚した恨みから事件を起こした。(霊界物語第52巻、応対盗に詳しい)
高松宮に出口八重野さんが嫁ぐ話も、山縣有朋が潰した。
1935年、第2次大本事件は全国組織の昭和神聖会発足により、ご落胤である聖師が表舞台に立ち、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると判断した西園寺公望の犯行である。
明治天皇は肖像画ばかりで写真がない、明治44年南朝正統の勅裁、明治神宮の昭憲皇太后の石碑、そして大正天皇に子種がない、そして西園寺公望が昭和天皇に上奏し、昭和10年6月の御前会議、12月8日昭和天皇の命令による大本弾圧で信者30余名の殉教者を出す、秀吉による26聖人殉教のカトリック処刑と並ぶ。天皇としての自信をつけ、翌昭和11年2.26で<朕が先頭に立ち、鎮圧する>と豪語、北一輝は<若殿に兜とられて負けいくさ>の辞世を残す。司馬遼太郎は中国に勝てない戦力で米国に宣戦と批判、東条との親密さは異常だった事は良く知られる。
霊界物語67巻浮島の怪猫で、アケハル(明治)の岩が浮島となり、われよし・つよいものがちの天皇制ファシズムの崩壊を予言している寓話であり、主神信仰への要諦が説かれる。偽天皇とは、大室寅之祐とか昭和天皇が西園寺八郎の子であるなど、戦前不敬罪として日本人にタブー視された盲点です。出口王仁三郎は有栖川宮熾仁親王のご落胤で正当な北朝の天皇でした。
明治42年10月伊藤博文がハルピンで安重根に射殺される。明治天皇は伊藤博文の呪縛から解放されるが、翌43年5月大逆事件が起こる。幸徳秋水が大審院で<三種の神器を奪った北朝の天皇を殺して何ゆえ大罪になるのか!秋水の魂は南朝にある!>という発言が外部に漏れ、驚いた山縣有朋は桂首相を呼びつけ、明治44年3月、明治天皇が南朝正統論の勅裁を出す。現在の文科省の学習指導要領では、南朝正統論は明治政府の間違いで、現天皇家は北朝であると断言している。少なくとも岩倉具視/伊藤博文に暗殺された孝明天皇は北朝であり、明治45年7月、明治天皇は61歳で崩御、皇后一条美子も大正3年4月64歳で逝去、昭憲皇太后と遺号される。一条美子は明治天皇の皇后であるのに、なぜ昭憲皇后でなく明治神宮の祭神として昭憲皇太后になったのか?皇太后とは先帝の皇后を指し、孝明天皇の后になる。大正天皇は明治天皇の皇后であった事を断固拒否したのである。一条美子は明治天皇の后ではない、暗殺された睦仁親王の后であり、明治天皇の先帝の后、つまり皇太后であった。皇太后とされた一条美子の実家の支流に鶴殿親子(ちかこ)がいる。美子はこの姪を特別に可愛がった。後に鶴殿親子は大本に入信する。出口王仁三郎の霊界物語口述の御世話をなさり、物語では紫姫として登場し、吉野の後醍醐天皇(南朝)の祟りを鎮められる役割を果たす。
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