神と科学と技術

科学技術の発達によって世の中が便利になり、昔は分らなかった謎もおいおい解明されいろんな迷信や偏見が打破される。その結果、「宇宙戦争が想定きれる現代において、神や霊界などにまどわされるのは前近代的だ」と思い込んでいる人は多い。だがはたしてそれでいいのだろうか。どんなに科学が進んでも、宇宙の謎を完全に解明することはできぬ。白い米を食って、赤い血をだし、黒い髪をはやし、黄色い糞をたれる。

この原理が明瞭にわかった医学博士もなければ、科学者もない。出口王仁三郎は「鼠一匹を研究して論文をだしても博士になれる世の中だから、学者といっても、真に頼りないものである」(水鏡』「科学の力」)といい、「屁のような理屈を吐いて飯を食う醜のものしりあな恐ろしき」と嘆く。

一流といわれる科学者の中にも、宇宙は科学ではとらえきれないことに気づいている人は少なくない。アインシュタインや湯川秀樹も科学の限界について深く認識した。昨今力を得てきたニューサイエンスも、物質の限界にようやく気づき、霊性など目に見えないものを認識しはじめたきざしがある。

物理学者の中には、東洋の神秘主義の神秘的体験から得た世界観の中に探している答えがあるのではないかと、考える人が増えている。『タオ自然学』を書いたフリッチョフ・カブラなどはその例だが、別に物理学に限らず、生物学のライアル・ワトソンなどもニューサイエンスの旗手だ。

神とか霊界は非科学的な迷信だと信じる人は、科学を一枚岩のがっちりしたものだと、思い込んではいないだろうか。実際はパラダイムのつぎ合せ、寄木細工に過ぎないのに。たとえば現在、理論物理学の分野、特に素粒子のレベルで、幾つものパラダイムが併存している。長い間、物質の構成要素の最も小さいものとされてきた原子が、実は電子、陽子、光子といった素粒子によって構成されていることが分った。

一九三二年に中性子が、その後、現在までに数百の素粒子が発見されている。物理学者たちは、「そんなに何百も物質を構成する要素などあるはずがない。もっと基本的な構成要素を探そう」とつき進めば進むほど、底なしの沼に踏みこむ。沼の底では、素粒子が理由もなく消滅しては純粋なエネルギーに化けたり、その逆の過程が進行したりで、実態としての物質という観念すらも怪しくなってきた。

奇妙なことだが、物質はより根源的なエネルギーの代名詞だというのだ。物質もエネルギーも根は一株につながっているが、その正体を見届けた者はまだ一人もいない。そんなミクロの世界のことさえまだ闇の中だから、神や霊界の有無について、科学で答えがでるのはまだまだ先であろう。

現実の表層に浮かび上がる物質世界を説明するいかなる言葉も、今ではすっかり色褪せた。近代科学はじまっていらい確固不動の礎とみなされてきた物質は、結局、うたかたの夢のように明滅していくはかない幻想であり、実像そのものではあり得ない。このような認識は、同時に物質の背後にあって支えきっている別次元の深層界を想定せざるを得ないはめに陥った。そして、深層の岩盤をえぐり出そうとする苦渋に満ちた試みも、ようやく緒についたばかりである。

「半可通的学者の鈍才浅智をもって、無限絶対無始無終の神界の事柄にたいして喃々するは、竿をもって蒼空の星をがらち落とさんとするようなものである。洪大無限の神の力に比べては、鼠の眉毛に巣くう虫、その虫のまた眉毛に巣くう虫、そのまた虫の眉毛に巣くう虫の放った糞に生いた虫が、またその放った糞に生いた虫の、またその虫の放った糞に生いた虫の糞の中の虫よりも、小さいものである。ソンナ比較にもならぬ虫の分際として、洪大無辺の神界の大経論が判ってたまるものでない」(『霊界物語』五巻「総説」)

とかく科学者は科学者の目で、宗教家は宗教家の目で、哲学者は哲学者の目でしか神や霊界を見ていない。そういう色眼鏡をはずし肉体的思考から離れぬ限り、物事の真実はわかるまい。王仁三郎が中途半端な学者に対してこのような毒舌を吐くのも、科学もまた将来、神や霊界に到る大事な道だという期待があるからだ。

「昔は人間は直感すなわち、第六感が鋭かった。だが今日の科学は、最低の直感を基礎として立てられたものだから、だんだんその第六感をにぶらしめてきた。それは人類にとってたいへんな損失であり、どうしても今後の学問は科学的に人間の知慧を向上せしめるとともに、神より与えられた人間の直感力をいよいよ発達させて、両々相まって人類の福祉に貢献するよう、努力させねばならぬ」(『人類愛善新聞』昭和一O年八月二三日「直観力を養え」)。また王仁三郎は「ナザレの聖者キリストは神を楯としパンを説き、マルクスパンもて神を説く」といい、また「大本は霊もて霊の道を説き、パンもてパンを説く教えなり」という。

・・・科学を基礎としなくては/神の存在経論を/承認しないと鼻高が/下らぬ屁理屈並べたて/己が愚をも知らずして/世界における覚者ぞと/構えいるこそおかしけれ/学びの家に通いつめ/机の上にて習いたる/畑水練生兵法/実地に間に合うはずがない/口や筆には何事も/いとあざやかに示すとも/肝腎かなめの行いが/できねばあたかも水の泡/夢か現か幻の/境遇に迷う亡者なり/肉の眼は聞けども/心の眼暗くして/一も二もなく知恵学を/唯一の武器と飾りつつ/進むみ霊ぞ憐れなり・・・

知るという 人はなにもの 天地の 妙(あや)しき神業(みわざ) かみならずして

霊と肉 一致和合のみおしえは 三五の道を おいて他になし

ダーウィンが『種の起源』を発表した当時その時代の人々にとって「人間とは何か」という問いかけは、文字通り現代以上に大問題であったろう。

現代の科学技術は、核爆弾、自然の汚染、環境の破壊といった問題を生み出し、人類ばかりか地球上の全生命までも滅亡させかねない状態になっている。遺伝子操作の技術の進歩は、そのうち、人間そのものの遺伝子に手を加えてゆくであろう。こうして科学が神の領分にまで踏みこもうという事態になると、あらためて「人間とは何か」を根源から考え直す必要がある。

人工知能やロボットの研究により、他動物に比べすぐれているとされた人聞の思考能力は、人間自身がうぬぼれているほどのこともなく、機械で可能な部分がかなりあることに気づかされた。ここでもやはり「人間とは何か」が問題になってくる。

コンピュータの研究とは、「考える」ということを考えることである。私たちが「考える・理解する」大部分は、三段論法など単純な論理の組み合わせである。この根底にあるものは、要するに「そう決めたらこうなる」ということだ。これまで科学の「人間とは何か」との問いかけは、霊的な面を否定する方向に人間を導いてきた。だがいずれ、科学技術の頂点において神と出会う状況になれば、もっと根元的などんでん返しもあり得よう。

白米を 食いて黄色き糞をたれ 赤い血を出す 理知らぬ学者よ

洋人の よだれのかすを切売りし 飯を食ってる 現代の学者よ

科学技術をとらえるやり方はさまざまあるが、単純に科学を研究、技術をその応用とすると、戦後いちじるしく伸びているのは技術の方だ。その技術は人聞の持つ能力の延長、拡大、変形と欲求の現実化へ進む。技術の発展につれ、人聞が思ったことと、それが実現するまでの時間的ズレが少なくなる。

一九二二年、王仁三郎はすでに、「二十一世紀の初期には通信機関が発達して、毛筆や鉛筆や万年筆の必要はなくなり、指先で空中に七十五声の文字を書けば相手に通じるようになる」(『霊界物語』一五巻二一章「帰顕」)と予言している。文字が言語を発する時代になるというのだが、当時は荒唐無稽に思われていたことでも、今では不可能な夢ではなくなった。だんだん思っていることがそのまま現実化していこう。

現在、私は執筆はすべてワープロを利用している。ワープロで打って執筆というのもおかしいが、鉛筆を持つことも、消しゴムを使うことも、まったくなくなった。たしかに早くて便利にはなったが、

何かのことでワープロが使えなくなれば、再ぴ鉛筆でのろのろと執筆できるだろうかと不安だ。中毒のようなもので、もう私はワープロを捨てられそうもない。

人聞の生活面は技術の開発によって欲求が限りなくエスカレート、物が充ちあふれ格段の進歩を遂げたかに見えるが、根の部分はさほど変わっていない。それよりも、技術によって生み出されたものが生物すべてに有害だと気づいても、それを根絶することの方がより困難になってきた。たとえば公害の最たるもの、もともとあってなんら益のない核兵器の廃棄自体、さらに強力な兵器を発明するより至難であろう。悪と悟ってソク改めるだけの英知と決断が、もはや人類には残されていないのか。

既成宗教 科学の斧に頭より わらるる時の せまり来にけり

目に皺を 寄せて吐息をつきながら 悟らんとする人のおかしさ

百匹自の猿の話

このまま科学と精神文明が跛行(はこう)状態を続けると、人類はバランスを失って、ひっくり返る危険がいっぱいだ。どうであれ人類は、神や霊界に背を向けたまま、行きも戻りもならぬところまでつき進むのだろうか。手遅れにならぬうち、人類が一度に目ざめるという奇跡はないのだろうか。あるのだ、その可能性は。「百匹自の猿」という話を思い出そう。

宮崎県の幸島に群棲するニホン猿のうち、賢く若い一匹の猿がある日、ふと芋を海水で洗って食べた。翌日は別の若い猿がまねる。旧習依然たる老い猿たちを除き、次つぎ芋洗いを真似る若猿たちが増え続け、その習慣が定着するのに六年かかった。ところがある朝、最後の若猿・・・百匹目だったとして・・・が芋を洗った時から、突如変化がおこった。頑固保守猿たちが何思ったか、いっせいに芋洗い猿に変身したのだ。驚いたことに、まったく交流のない別の島々にいる猿の群までいっせいに芋を海水で洗って食べる習慣を持ち始めた。

この現象をどう理解すればいいのか。まったく飛躍的な情報が、一つの「種」のみに共通する「目に見えない場」を通じ、空間を超えて伝達、発現したのではないかという考え方がある。一九八一年、レパート・シェルドレイクは、この「目に見えない場」を「形態形成場」と名づけたが、それを「霊界」と呼ぴかえてもさしつかえあるまい。

一度目ざめた猿の知恵は次から次へと新しい局面を切り開き、現在ではタコ狩りを覚えるまでに至った。しかも、明らかに調理技術を身につけている。海辺の岩角にとりたてのタコをこすりつけ、すり跡に海水の塩味をしみこませる高等手法を編み出してしまったのだ。向島の猿族はこうした知的な営みに喜々としてたわむれ、今後どこまで発展するのか注目を集めている。それがまた、形態形成場を通じて、別のサル群にどう波及してゆくか、興味ある問題である。

人類の未来に行きづまりを感じている人にとっては、「百匹自の猿」の話はあらたな希望の光を投げかけるものであろう。最近では、さまざまな人々が「百匹目の猿」をたとえとして持ち出している。

人間の場合、「百匹目の猿」のような飛躍的現象は、言語の使用などによって促進され、それこそ無数に存在する。人類の進歩は飛躍によってもたらされてきた。新しい発明が社会に普及したり、明治維新、ロシア革命などの現象もそうである。飛躍は必ずしも良い方向へ向うとは限らぬ。ファッシズムの拾頭と民衆への波及、兵器の発明とその拡大などといった好ましくない飛躍もある。

いずれの場合でもその先駆者は少数から始まり、ある程度の数に達した時に飛躍が生まれる。少数にとどまったまま飛躍にいたらず、途中で消えてしまったものも数多い。弁証法でいう「量から質への転化」はそのことを意味する。

艮の金神は「このままでいくと世界の大峠がきて、人民が三分になるぞよ」と警告した。第一次、第二次世界大戦で人類は幾つかの峠を越えたが、まだ地球を傾けるほどの「大峠」は越えていない。早く人類が意識を変革せぬ限り、それはくる。

出口直に憑かる艮の金神は三千世界の立替え立直しを叫び、人民が改心せねば「三分になるぞよ」 と予言する。その「立替え立直し」も、ある質的大変換が引き金になるであろう。

キリスト教の中には、最後の審判で神に救われる者以外は絶滅すると信じている宗派もある。人類滅亡のノストラダムスの予言など、人類の未来に絶望的な予言は数多いが、王仁三郎の考えは決して悲観的なものではない。

「キリストは、『最後の審判をなすために再臨する』といったが、彼の最後の審判というのは、火の洗礼を施すということだ。彼は火の洗礼を施そうとして、その偉業が中途で挫折したため、再び来たって火の洗礼を完成させようと欲した」といい、火の洗礼とは人聞を霊的に救済することだとしている(『水鏡』「霊界物語は最後の審判書なり」)。

そして「最後の審判は、閻魔大王が罪人を審くと同様なる形式において行わるると、考えている人が多いようだが、それは違う。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものとの標準を示されることである。この標準を示されて後、各自はその自由意志によって、自ら選んで天国に入り、あるいは自ら進んで地獄におつる、そは各自の意志想念のいかんによるのである。標準とは何か、霊界物語によって示されつつある神示そのものである。ゆえに最後の審判は、大正十年十月(霊界物語の口述を指す)より、すでに聞かれているのである」としている(『水鏡』「霊界物語は最後の審判書なり」)。

王仁三郎によれば、予言とは、「予め言う」予言ばかりではなく、「神が言を預かる」預言の意を含む。神は出口直の口を通して警告したが、あとは時節がくるまで、神自身の吐いた言葉を神が預かる。もし人類がどうしても改心できねば、万策つきて返きねばならぬ。だがそれに気づいて目ざめれば、人類の未来は希望に輝く。

これからも、人類の生み出した邪気を清めるために大天災大地災はあるかもしれないし、第三次世界大戦がないともいえない。それが人類の越えねばならない大峠だとすれば、すでに峠越えは始まっている。しかし王仁三郎は、その峠の先に人類の明るい未来を見る。立替え立直しとは、世界全体のことばかりではなく、実は自分自身の問題でもある。

立替えを 他人のことと勿(な)思ひそ 立替するは己が身魂ぞ

ゆめの世に 夢を見るちょう人の世も 神の御声に醒めざるはなし

三千世界一どに開く梅の花

「三千世界一どに聞く梅の花」と、艮の金神は初発に宣言した。一八九二年旧正月のことである。これについて、王仁三郎は解釈する。

「今日の物質文明と大本の精神文明との準備がととのったということであり、三千世界一どに聞くというのは、縦からも横からも全部天にあるものいっさいを指して、それがいっさい、地にあるもの、

一度に開くということだ。今までにためてあったすべての経綸が、まず形の上から現われてくる」(『真如の光』昭和六年二月一五日号「時代に生きて働け」)

確かに艮の金神が宣言した当時からみれば、加速度的に発展した物質文明、地球上の華やかな変化は目をみはるに十分だ。だが精神文明の方はどうか。むしろ後退し、蹴行的状態である。王仁三郎は、梅の花は神の教えだと示す。神の教えが一気に人類の目をきます時がくるということであろう。その時期はいつか、どんな方法でか、私たちには分らぬ。

碁の名人が素人相手に対局したとする。名人の打った捨て石が、進むにつれてどうなって、どう利くかということは、予測もつかなぃ。「名人ともあろうものが、ばかな石を打つものだ」ぐらいに思うこともあろう。だが振り返ってみると、その一石が決め手となることさえあるのだ。

神の経論は近視眼的な我々には理解できなくてあたり前、完全な理想世界を築くには、政治も、経済も、宗教も、芸術も、形あるものないものすべてが必要であり、わけでも科学は大きな役割をになうであろう。

王仁三郎は、一九三一年、宣伝使会で次のように語っている。

「大本がこれだけ神さまのお道を伝えるのに便宜を得たのも、物質文明のおかげである。これがなければ、台湾や北海道、海外諸国などへは、一代かかっても、行けるか行けないかわからない。けれどこうして千里もへだたった人と一堂に会することのできるのは、物質文明の賜物である。昔のようなら、どんなに神さまが三千世界を統一するといわれでも、百年河清を待つよりむずかしい。今日のアメリカの出来事を今日聞けるようになったのも、高御産巣日(たかみむすび)系統の神の活動だ。また神御産巣日(かんみむすび)系統の活動は、これは女性的の活動だから、はっきり表に現われてないが、並行して現われている。思想の洪水が氾濫するのも、神の道が発展した証拠だ。一方には思想の洪水があって国を危うくする者がないと、真剣に国を守る者が出ない。皆、神の方から見れば、すぺてが経論であって、一潟千里(いっしゃせんり)の勢いで進展している」(『真如の光』昭和六年二月一五日号「時代に生きて働け」)

この頃に比べると、宇宙中継のおかげで、世界の人が一度に梅の花の聞くのを見ることも夢ではなくなった。今後の社会は物質から情報へ、情報から霊的なものへと質的変化をめざし、両方併存しつつ、霊的側面が優勢になることが望ましい。

いま目まぐるしく進むこの情報社会でこそ、梅の花、教えがパッと一度に咲きにおう時期がくる。その霊的変革によってのみ、三千世界は破滅から救われる。ある時期は速度を早めながら、破滅か光明かの選択を人類にきびしく迫りつつ、最後の百匹目へと確実に進みつつある。

みな人の 眠りにつける真夜中に 醒めよと来なく山ほととぎす

梅の花 一度に開く時来ぬと 叫ぴ給いし御祖畏(みおやかしこ)し

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