今が人生で一番いい時期  『いのち』(瀬戸内寂聴)

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書店に行けば触手が延びそうな本は多い。その度に本が売れないなんて、と思うのだが、それでも書店の閉鎖を伝えられると気になる。落ち込むというと大袈裟にきこえるだろうからそうは言いたくないが、僕の意識の停滞感を意識させられるからだ。そんな中で女性作家の旺盛な活動が目につく。佐藤愛子の『九十歳、なにがめでたい』や次々にだされる本に驚いていたのだが、瀬戸内寂聴の『いのち』も目についた。瀬戸内はドナルド・キーンと対談(『日本の美徳』)をしているが、その旺盛な活動ぶりに目を見張る。僕は、今、文学にしろ、政治にしろ、大正期を起点にするその現代史的展開が停滞と解体に見舞われていると感じている。それに抗するようなものとして彼女等の活動というか、表現を見ている。こうした停滞と解体の中で「あたらし女」たちの系譜にあるフェミニズム的なものだけが、それに抗しえているのかという思いとも重なる.

瀬戸内寂聴はその作品だけでなく、出家も含めてその行動が謎めいたところもあって気になる存在であった。もう何年か前だが、僕らが作っていた経産省前のテントのハンガーストライキに参加されたことがあった。

「震災後、福井の原発再稼働に反対して、霞が関の経済産業省前で、反原発のハンガ―ストライキに参加しました。九十歳のおばあさんがテントに座ったら、マスコミは放ってはおかないでしょう。すると若者が報道を見る。若い人たちに

もっと原発の恐ろしさを知ってほしいと思ったんです。主治医の先生に言ったら反対されるに決まっているので、内緒で行きました)(『日本の美徳』)。

僕は瀬戸内さんが、経産省前のテントに登場したときは現場にいたから本当に驚いたが、こうした行動には感服した。彼女には「戦争はだめだ」という強い信念がある。安保法案(戦争法案)に反対する集会に駆け付け、演説をしたことも目撃している。こうした行動にはせ参ずる姿は感動的であるが、彼女はこの対談の中で、「書いている最中に逝きたい」ともらしている。西部暹の自死などもあり、死について考えあぐねていることに一陣の風のようなメツセージになっている

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『いのちは』昨年の暮れに出たものだが、今も本屋では平積みされている。この作品はかつて佐藤愛子が最後の長編小説として『晩鐘』を書いたような位置にあるのだろうか、と思ったりした。どちらも回想風になっているからだ。それは人が年を重ねることで記憶されている過去の世界が大きくなっていくことから考えても当然のことだが、その回想はとても魅惑的である。

「帰路」と題されて冒頭の部分は偶然のことで見つかった胆のうガンの手術を終えて寂聴庵に帰る過程での回想だが、そこには彼女が野辺送りをしなければならなかった友人や、かつては親しい関係にあった男たちのことが書かれている。ガンの手術からの帰還がガンで亡くなった人たちのことを想起させるのだろう。彼女の胆のうガンがみつかったのは九十二歳の時で、手術を避けるのが普通かも知れない。即断の形で手術に踏み切ったのは驚きだが、彼女の強い生命力をあらわしているのだろうか。瀬戸内寂聴は戦後の女性作家として多くの作品を書いてきたし、その多くが魅惑的なものだったが、同時にその行動が気になる人だった。彼女の出家はいうまでもないことだが、先にあげた経産省前テントや国会前集会に参加など行動もその一つである。その行動の人として側面がこの手術にもよくあらわれているように思う。

人は死を経験できない。死は観念である。ひとはいずれ死ぬ存在である、というのが根底的なものだが、これは飛行機に乗ってというように不断に想像させられるものであり、ガンはもっとも身近でそれを感じさせるものだ。ガンによる死を目撃することが多いからである。彼女は近しい人の多くをガンでなくし、野辺送りしたことの経験が人ほどガンを恐れなくしてきたのかも知れないと述べている。ガンに狎れてしまったからだろうかと書いているが、この辺は興味深かった。観念としての死を現実に引き寄せ、人々を恐れさせるのはガンであるが、彼女が最もおそれてきたのは頭がさけることだけであった、と書いている。具体的には脳出血などで、自分で判断できない状態になりながら、命だけは長らえている状態である。これは誰しもが考えることである。僕も心筋梗塞を経験したときに、とりあえず脳梗塞でなくてよかったと思った。

彼女の回想はそのまま彼女の作家への道の回想であるが、彼女は行動の人であると述べたが、作品以上に彼女のふるまいが注目もされてきた。それが披瀝されている。女性作家というのはその作品とともに、その生き方というか、ふるまいが注目されてきた。それは一般的なことであったが、彼女の場合はそれが一際強かったのである。テレビの番組で彼女は三島由紀夫や岡本太郎なとのつきあいのことを語っていたが、その岡本太郎との関係はおもしろい。彼女の作家としての歩みとその過程で出あった人々との関係は複雑であり、謎めいたところが少なくはないがこれを彼女の手によって解き明かされているのが回想である。

子宮作家と称され、文芸誌などから干されたということを彼女はしばしば語っている。これはよく知られていることだが、性を主題にした作品を書くことは彼女の出発にあることだった。これは彼女の作品の根底にあることだし、そこが彼女の魅力であった。

彼女は多くの女性の評伝を書いてきた。それは田村俊子であり、岡本かの子であり、菅野スガであり、伊藤野枝であった。ここに挙げたのはほんの一部にすぎない。女性の評伝を書くことは、書き手としての女性として当然のことだったのだろうが、また、社会に反逆した多くの女性を取り上げてきた。彼女等は社会的な反逆者であること、女性であることの二重の無視に置かれてきたのだから、その評伝を書くことは大きな意味を持ってきた。反逆する人に対する関心はただならざるを得ない生を生る他なかった人たちへの思いなのであろうが、それは彼女の何を根底にしているか、興味深い。忘れてはならないのは彼女が連合赤軍の永田洋子につきあっていたことである。誰も手を差し伸べなかった中で彼女は書簡を交換し、彼女をたずねるつきあいをやっていた。反逆した女性とのつい合いは実践的なものであった。これは彼女以外の文学者などは誰もやれていないことだった。

彼女はやがて良寛や一遍、また西行について書く。『手鞠』『花に問え』『白道』の仏道三部作策と言われるものである。これは宗教的なものへの関心と傾斜が結びついたものであるだろうが、反逆する女性への関心につらなるものであつたように思う。

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この作品の中で多くのページが割かれ、力をこめて書かれているのは河野多恵子や大庭みな子との関係である。この河野多恵子も大庭みな子も戦後を代表する女性作家であるが、彼女らとの交流の披瀝はとてもおもしろい。寂聴は放浪中の京都から小説を書くことを決めて昭和二十六年(1951年)に上京した。朝鮮戦争がはじまったのは昭和二十五年(1950年)であり、その直後ということになる。河野多恵子は翌年に上京し、それから彼女が亡くなる平成二十七年(2015年)までその交流は続いた。彼女等は丹羽文雄の主催する『文学者』にて知り合った。佐藤愛子などが『文藝首都』に属していたことはよく知られているが、当時は文壇の周辺に同人誌の群れがあったのだろう。彼女等は文学を目指すものとしてこうした場に出入りしていたのだ。河野多恵子が芥川賞を受賞するのは1963年であるから、それまで結構長く文学的修行を積んでいた時期があるのだ。寂聴は「男との仲はどうもまっとうしきれないが、女との友情は結構長く続く」と述べているが、河野との関係はそうだったのだろう。

河野多恵子はマゾイズムなどの異常性愛を女性作家として書いたことで評価されてきた。『みいら採り猟奇譚』などは大変評判になったが、僕はあまりおもしろくなかった。この河野との関係では、河野の性的趣向も含めあまり知らなかったことが披瀝されていておもしろい。この河野はかつて左翼だった時期があり、当時を知る人から「私たちがわいわいデモなんかやっていたころ、彼女は私たちの憧れのリーダーの恋人だったんですよ、いつもデモの先頭に彼と並んであるいていた」と寂聴は教えられたらしい。

僕はもう一人取り上げられている大庭みな子との関係の方がより興味をそそられた。大庭みな子が『三匹の蟹』で芥川賞を受賞したのは1968年であるが、それ以降は次から次と作品を書き、どれも多くの読者を獲得した。彼女の作品は詩情とエロスに満ちたものであった。寂緒はかつて自分作品が子宮小説と批判され、干された時期のことを思い出しながら、なんという時代の変貌とおもったらしい。ここに反発もあったのだろうが、「河野多恵子の小説は、読後、「りっぱだな」という感想があるが、大庭みな子の小説は、読んでいる最中から胸があつくなり幸福感が満ちてくる。どの作品も詩情があふれていて読後、美味しい御馳走を食べた後のような満足感がはらでなく胸を満たすのだった」と書いている。彼女は直ぐに熱烈なファンになり、やがて親しい関係になる。大庭みな子はかなり奔放な性を書いているが、それは作品上のことだけではないと思われていた。だから夫の大庭利雄との関係が注目されていたのだけれど、それについては興味深い話が書かれている。河野多恵子と大庭みな子はライバル視されていたが、あまり相互の交流はなかったらしい。寂聴は河野と大庭の双方に付き合いがあり、相互の仲立ちみたいなことを結果としてはやっていたらしが、この辺はおもしろい。これまではあまり知られてなかったことが披瀝されているのだ。

寂聴は60歳代の後半に良寛や一遍、西行のことを書くが、70歳になって『源氏物語』の現代語訳に取り組む。与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子に続くもので大変な作業であったらしい。僕はどれも一応は読んでいるが、与謝野晶子の『源氏』一番いいように思う。寂聴の『源氏』はそのつぎかと思うが、谷崎の『源氏』は訳しすぎというところが気になる。これは『源氏』の品というか、匂いを消してしまっているように思える。確かに『源氏』は原文で読むのは難しいし、古文の授業のように文法がどうのこうのということになれば嫌になる。これを楽しく読むためには現代文で読んでからでいいのであろう。それは多くのひとが指摘する通りである。けれど、現代文からということでは品や匂いというか、『源氏』の魅力も減衰する。現代文に訳するとこういう厄介なこともあるのだろうが、寂聴の場合には先行する谷崎や円地との差異を要求づけられるわけでそこが大変だったのだろうと思う。この本ではその辺の事も触れられている。『源氏』をめぐる文学者たちの葛藤や確執がいろいろと書かれている。日本の女性作家が『源氏』を最後のよりどころとするのはよく分かるが、そうであれば、男にとってそれに匹敵するものは何かということが頭を掠めた。小林秀雄のように本居宣長でもあるまいとは思う。ここは、女性の作家たちに比べて男の作家たちに元気がないことに関わるのだろうか、とも思う。

大本柏分苑

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