神素盞嗚大神
『霊界物語』一巻から六巻までに王仁三郎の口を通して筆録されている。これは国常立尊の御退隠にかかわるあたり、神代の昔、素盞鳴尊が高天原を追放される記紀神話にどこか似ている。相応の理により、地上霊界の主宰神である国常立尊の動向は、地上現界の主宰神素盞鳴尊の行為に投影されるのか。
この先語られる神代史はまさに記紀神話を裏返し、問い直す対抗神話といえる。
『古事記』では、素盞鳴尊は、父伊邪那岐尊に命じられた大海原を治めきれず、ただ手もなく長い年月を泣きわめく。あげくに父神にとがめられ、地上を捨てて荒々しく高天原に上り、姉である司神天照大神に抵抗し、乱暴狼籍(らんぼうろうぜき)を働く。たまりかねて姉神は岩戸にこもり常暗の世を招くに至って、万神は智恵をかたむけ岩戸を聞き、素盞嗚尊を弾劾の上、追放する。何ともあきれはてた悪神なのである
しかし高天原を追われて出雲国に降った素盞嗚尊は、どうしたことか突如、詩的で英雄的な神に変神する。粗暴で無能で女々しくて何ひとつ取柄のなかった神が、ここでは恐ろしい八岐の大蛇を退治して悪の根を断ち、櫛名田(くしなだ)姫を救け、大蛇の尾から出た名刀を天照大神に献上する。勇気凍々、優れた智謀、果断な処置、自分を疑い追放した姉神へさらりと向ける崇敬の志。
出雲の地に須賀宮を建て、妻を得た喜ぴを
「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」と美しい歌に託す詩情。いったいどちらの素盞鳴尊が実像なのか
素盞鳴の 神世にいでてはたらかば がぜんこの世は浦安の国
伊邪那岐の 神の鼻より現れましし 素盞鳴の神先端の神
先端の 先端をゆく素盞鳴の 神のいでます世とはなりけり
素盞鳴と いう言霊は現代語の 先端を行く百破戦闘よ
蓑笠を つけて国々まわりつつ 霊魂しらべし神ぞとうとき
素盞鳴の 神は神代のエロの神 三十一文字で世をならしましぬ
八雲たつ いづも八重垣つまごみにの 歌の心を知れる人なし
素盞鳴の 神の始めし敷島の 歌は善言美詞(みやび)のはじめなりけり
素盞鳴の 神にならいて吾今に、歩みつづくる敷島の道
海原を 知らせと神のメッセージ いまにまったき素盞鳴の神
さらにまた年をへて、違った素盞鳴尊の顔がある。根の堅州国に住んでいた時のこと、大国主命は悪逆非道の兄弟八十神から逃れて、その祖である素盞鳴尊のもとへ逃げこむ。そこで尊の娘須勢理姫と一目で恋におちる。
素盞鳴尊は大国主命を蛇の室、翌夜はムカデと蜂の室に寝かせた上、野火を放ってあやうく焼き殺そうとする。そのやり方はまことに乱暴で意地が悪い。大国主命は姫や野鼠の助けを得て、これらの難問を無事に切り抜ける。素盞鳴尊は頭のシラミをとらしているうち、寝てしまう。大国主命は姫と共謀して、寝入った素盞鳴尊の髪を垂木(たるぎ)に結びつけ、巨岩で戸をふさぎ、生太万(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)と天(あめ)の詔琴(のりごと)(政治的、宗教的支配力の象徴)を盗み出し、須勢理姫を背おって逃げ出す。
天の詔琴が木にあたって鳴り響く。目ざめた尊は室を引き倒し、結びつけられた髪をとかして黄泉比良坂(よもつひらさか)まで追いつめ、遠く逃げゆく二人に叫ぶ。
「そのお前が持って出た生太万、生弓矢で八十神どもを追い放ち、国の支配者となって、わが娘須勢理姫を正妻となし、宇迦(うか)の山に立派な宮殿を造って住めよ、こやつめが」
髪の中に無数のムカデを飼っておくような、見るも恐ろしい素盞鳴尊。その婿を試す方法はいかにも荒っぽい。しかし最後のせりふにこもる深い情愛はどうであろう。可愛い娘と生命ともいうべき宝を盗んで逃げる男に向って、「こやつめが」と投げる一言に、無限のいとおしみがあふれでいるではないか。
数々の試練をくぐり抜けて自分をあざむいた男に対して、その資質を審神し、娘との愛をもたしかめ、盗んだ宝を与えて、その未来を指示し祝福してやる。なんと行き届いた舅であろうか。
素盞鳴尊は救世主神
大本では、素盞鳴尊を瑞の御霊の救世主神であり、購い主として仰ぐ。これは明治政府の宗教政策により作為された皇室の祖神天照大神を仰ぐ、神道系宗教に見られない神観である。霊界物語では一巻から六巻まで、艮の金神国常立尊を主軸にして、神代が展開する。だが一五巻からは、完全に主軸が素盞鳴尊に移動するのである。
なぜ大本ばかりは、世間のいう悪神、崇り神を信仰するのか。出口直にかかった良の金神ばかりか、王仁三郎にかかる素盞鳴尊まで。
王仁三郎は、素盞鳴尊が犯した罪について、言霊学上から独特の解釈を示す。
悪盛んにして天に勝つ。地上神界ですら、すでに国祖の威霊は封ぜられ、天地の律法は名ばかりの世であった。伊邪那岐大神の神命を受けて素盞鳴尊が地に下った時、合せ鏡である現界は手がつけられぬばかりに乱れていた。もともと軽い清らかなものは天になり、重く濁ったものが沈んで積み重なり地を造った。その成り立ちから体的なのだ。当然、肉体を持つ地上人類の体的欲望は激しい。
霊的性能が体的性能に打ち克つための、すなわち霊主体従の素盞鳴尊の神教など、血を吐くほどに叫んでも、体主霊従に堕した人々には通じない。その心痛は「八拳須(やつかひげ)心の前に至るまで」泣くほどであった。治まる時には治めずとも治まるが、治まらぬ時にはどんな神が出ても治まらぬ。
父伊邪那岐大神のお咎めに対して、素盞鳴尊は一言の弁明もせず、地上人類の暴逆や不心得をも訴えず、罪を一身にかぶって引退する覚悟であった。咎める伊邪那岐大神も、貴のみ子の苦衷を察せられぬはずはない。しかし人類を傷つけまいとされる尊の誠をくみとられ、「いま、わが子一人に罰を与え罪人としたならば、人類も悪かったと気づいてくれよう」との悲願をこめ、涙をのんで追放される。
八束髭 わが胸先に垂るるまで 嘆き玉いぬ天地のために
素盞鳴の 神は地上を知らすべき 権威持たせり惟神にして
素盞鳴の 神の恵みに村肝の 心せまりて涙こぼるる
変性男子と変性女子
素盞鳴尊は地上を去るにあたり、姉天照大神に別れを告げるべく高天原へ上る。地上は統治者を失って、大変な騒ぎである。天照大神はその騒ぎに、弟神が高天原を奪りにくると疑い、もろもろの武備を整え、おたけび上げて待ち受ける。
「私に邪(きたな)い心はない。ただ事情を申し上げたいばかりに参ったのだ」と告げても、疑いはとけぬ。
素盞鳴尊の心の潔白を証明するために、天の安河原での誓約の神事を申し出る。天照大神は素盞鳴尊のもつ剣をとって三つに折り、天の真奈井にすすぎ、かみにかんで吐き出す息から三柱の女神が生まれた。素盞鳴尊が天照大神の髪や左右の手にまいた珠をとって同じくかんで吹き放つと、五柱の男神が生まれた。そこで天照大神は告げる。
「あとに生まれた五柱の男神は私のもっている珠から生まれたからわが子、先に生まれた三柱の女神は汝の剣から生まれたから汝の子である」
この御霊調べの結果、天照大神は五つ(厳)の男霊、すなわち厳(いづ)の御霊(みたま)であり、女体に男霊を宿すから変性男子。素盞鳴尊は三つ((瑞)の女霊、すなわち瑞の御霊であり、男体に女霊を宿すから変性女子と判明する。
変性男子、変性女子は大本独特の筆先用語であり、神界の都合で国常立尊、のちには男霊である天照大神の霊魂の湿る出口直を変性男子といい、逆に豊雲野尊や女霊である素盞鳴尊の霊魂を宿した王仁三郎を変性女子という。また直を厳の身魂、王仁三郎を瑞の身魂とも呼ぶ。
天照大神が素盞鳴尊の心を疑ったことについて、王仁三郎は述べる。
「元来、変性男子の霊性はお疑いが深いもので、わしの国を奪りにくる、あるいは自分の自由にするつもりであろう、こう御心配になったのであります。ちょうどこれに似たことが、明治二五年以来のお筆先に非常にたくさん書いてあります。変性女子(王仁三郎)が高天原(綾部)へきて破壊してしまうといって、変性女子の行動に対して非常に圧迫を加えられる。また女子が大本全体を破壊してしまうというようなことが、お筆先にあらわれております。・・・大本教祖(出口直)も変性男子の霊魂であって、やはり疑いが深いという点もあります」(『霊界物語』一二巻二九章「子生(みこうみ)の誓」)
王仁三郎は、皇室の祖神とされる天照大神を批判し、その対抗神である素盞鳴尊を愛の神として捉えている。善と悪とは相対的であり、一方を善とすれば、他方は悪となる。今日まで、皇室の祖神天照大神は善の象徴として考えられていたが、はたしてそうだろうか。
安河に 誓約の業を始めたる 厳と瑞との神ぞ尊き
八洲河の 誓約になれる真清水は 罪ちょう罪を洗い清める
疑いと武力が紛争の種
素盞鳴尊が地上を追われたのには、より深い原因があったことを、王仁三郎は『霊界物語』の中で一庶民の噂話にことよせ述べている。
「天の真奈井からこっちの大陸は残らず、素盞鳴尊の御支配、天教山の自転倒島から常世国、黄泉島(よもつとう)、高砂洲は姉神様がおかまいになっているのだ。それにもかかわらず、姉神様は地教山も黄金山も、コーカス山もみんな自分のものにしようと遊ばして、いろいろと画策をめぐらされるのだから、弟神様も姉に敵対もならず、進退これきわまって、この地の上を棄(す)てて月の世界へ行こうと遊ばし、高天原へ上られて、今や誓約とかの最中だそうじゃ。姉神様の方には、珠の御徳から現われた立派な五柱の吾勝命(あかつのみこと)、天菩火命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)という、それはそれは表面殺戮(さつりく)征伐などの荒いことをなさる神さまが現われて、善と悪との立別けを、天の真奈井で御霊審判(みたましらべ)をしてござる最中だということじゃ。
姉神様は玉のごとく玲瀧(れいろう)として透きとおり愛の女神のようだが、その肝腎の御霊からあらわれた神さまは変性男子の霊で、ずいぶん激しい我の強い神さまだということだ。弟神様の方は、見るも恐ろしい十握(とつか)の剣の霊からお生まれになったのだが、仁慈無限の神様で、瑞霊ということだ」(『霊界物語』一二巻二五章「琴平丸」)
いわば天照大神は疑い深く、我が強く、弟神の領分まで侵略したがるほどに欲深く、殺戮征伐を好む神になる。素盞鳴尊がなすすべもなく泣いていたわけであろう。
これが口述されたのは大正一一年三月一一日、大日本帝国はシベリアに出兵、軍備を強め、仮想敵国を作って牙をとぐ頃。しかも王仁三郎は第一次大本事件で投獄され、開祖出口直の墓はあばかれ、神殿はこわされ、不敬罪に関われている最中である。よくもまあ、これが酷(きび)しい検聞の目をくぐり抜けたものである。
視点をかえて見れば、天照大神の行為そのものにも首をかしげたくなる。お別れの挨拶がしたいという弟神の心を察する前に、ソク武力を整える。天界と地界は合わせ鏡、手のつけられぬ地上の乱れの原因を知り、その立て直しの方策を考えるのに一度高天原を見たかった・・・そう思いやることがなぜできなかったろう。
今日でも「疑い」が、大は仮想敵国をつくり上げる国際問題から小は家庭のいざこざまで、どれほど多くの紛争の種を撒(ま)いていることか。それを清くあるべき高天原の主宰神がまず犯された罪は重大である。
しかもその疑いの解決を、まっさきに武力に求めようとした。この体質は省みられず、帝国日本に引き継がれ、尾を引いた。口述の翌一二年関東を襲った大地震には朝鮮人暴動の疑いをかけ、数千人を殺している。その後も二度にわたる世界大戦や幾多の愚かな戦争のくり返しが、人類をどれほど悲惨な状況におとしいれてきたことか。さいわい神代では、素盞鳴尊の言霊と誓約によって、あやうく地上軍との武力衝突こそ避けられたが。
素盞鳴尊は「我が心清く明し。故、我が生める子は手弱女(たおやめ)を得つ。これによりて言(もう)さば、自ら我勝ちぬ」(これで私の清明潔白なことは証拠立てられた。私の心の綺麗なことは私の魂から生れた手弱女によって解りましょう。従って、私の勝です)といい、勝ちのすきびに乱暴をする。これについて王仁三郎は、地上から従ってきた素盞鳴尊の従神たちの集団行為だという。主である素盞鳴尊があらぬ疑いをかけられた無念を、その潔白が晴れたとたんに爆発させたのだ。
素盞嗚尊は罪もないのに高天原を放逐され、天の磐戸隠れの騒動を仕組んだのは、ウラナイ教の高姫ということが霊界物語に記されています。
第一八章 婆々勇(ばばいさみ)〔五八五〕
高姫、黒姫、蠑螈別を始め、一座の者共は折から聞ゆる宣伝歌の声に頭を痛め、胸を苦しめ、七転八倒、中には黒血を吐いて悶え苦しむ者もあった。宣伝歌は館の四隅より刻一刻と峻烈に聞え来たる。
黒姫『コレコレ蠑螈別サン、高姫サン、静になさらぬか、丁ン助、久助その他の面々、千騎一騎のこの場合、気を確(しっか)り持ち直し、力限りに神政成就のため活動をするのだよ、何を愚図々々キヨロキヨロ間誤々々するのだい。これ位の事が苦しいやうなことで、どうして、ウラナイ教が拡まるか、転けても砂なりと掴むのだ、ただでは起きぬと云ふ執着心が無くては、どうしてどうしてこの大望が成就するものか。
変性女子の霊や肉体を散り散りばらばらに致して血を啜り、骨を臼に搗いて粉となし、筋を集めて衣物に織り、血は酒にして呑み、毛は縄に綯ひ、再びこの世に出て来ぬやうに致すのがウラナイ教の御宗旨だ。折角今迄骨を折つて天の磐戸隠れの騒動がおっ始まる所まで旨く漕ぎつけ、心地よや素盞嗚尊は罪もないのに高天原を放逐され、今は淋しき漂浪(さすらい)の一人旅、奴乞食のやうになつて、翼剥は)がれし裸鳥、これから吾々の天下だ。
この場に及んで何を愚図々々メソメソ騒ぐのだ。高姫さま貴女も日の出神と名乗った以上は、何処迄も邪が非でも日の出神で通さにやなるまい。
憚(はばか)りながらこの黒姫は何処々々迄も竜宮の乙姫でやり通すのだ。蠑螈別さまは飽までも大広木正宗で行く処までやり通し、万々一中途で肉体が斃れても、百遍でも千遍でも生れ替はってこの大望を成就させねばなりませぬぞ。エーエー腰の弱い方々だ。この黒姫も気の揉める事だワイ、サアサア、シ’ャンと気を持ち直し、大望一途に立て通す覚悟が肝腎ぢや。
(大正一一・四・三 旧三・七 加藤明子録)
天の岩戸ごもり
高天原の神々は、天照大神に素盞鳴尊の従神たちの暴逆を訴える。だが天照大神は、誓約によって弟神の潔白が明らかになった今、激しく後悔されたであろう、だから今度は、しきりに弁護する。
「神殿に糞をしたといって騒ぐけれども、あれはきっと、酒に酔って何か吐き散らしたまでのことでしょう。田のあぜや溝をこわしたというのも、耕せば田となる土地をあぜや溝にしておくのは惜しいと
思つてのことでしょう。わが弟のしたことですから」
だがかばい切れぬ事件が起こった。
清めぬいた忌服屋(いみはたや)では、天照大神のもとで織女たちが神に捧げる御衣を織っていた。その時、御殿の棟がこわされて、その穴から火のかたまりのようなものが落ちてきた。逆はぎにはがれた天の斑馬(ふちこま)ではないか。逃げまどう織女たちの絶叫、梭(ひ)に陰上(ほと)をついて死ぬ織女。なんと、天井の穴からのぞき見ているのは、弟素盞鳴尊の髭面ではないか。
あまりのことに思慮を失った天照大神は、天の岩屋戸に閉じこもってしまう。これによって高天原は常闇の世となり、荒ぶる神々はここぞと騒ぎまわり、禍という禍はことごとに起こった。
天の斑馬(ふちこま)を逆はぎにはいで落としたのは、明らかに素盞鳴尊自身である。こればかりは、弁護の余地さえなさそうだ。それにしても、安河原の誓約(うけい)では確かにやさしい魂をもっ素盞鳴尊が、なぜわざわざ姉の面前で、そのような残虐行為に出たものか、その矛盾がひっかかってならない。これについては、王仁三郎はなぜか口をとざして語らぬ。代って私が推理しよう。
素盞鳴尊の従神たちの乱暴を神々が訴えた時、天照大神は弟神をかばい過ぎてしまった。厳然として天地の律法を守らねばならぬ高天原の主宰神が、天則違反を犯す天下の大罪人(部下の罪は主人の罪の意で)を、いとしい弟だからと見すごしてはならない。それは天地の神々へのしめしもつかず、律法は内側から崩れてゆこう。だからこそ父伊邪那岐尊は、涙を呑んで貴の子を追放されたものを。姉神がかばえぱかばうほど、素盞鳴尊は苦しんだであろう。姉神をその重大な過失から救い、従神たちの天つ罪をつぐなって、傷ついた律法の尊厳を守る手だては「部下の罪は私の罪だ。どうか私を罰Lて下さい」とまともに申し出ても、理性を失っている神は聞き入れまい。
素盞鳴尊のとるべき道は一つ。姉神の面前でのつぴきならぬ怒りを買うのだ。万神の激怒をわが身一神にふりかえて処罰させる。それしかないではないか。ところが天照大神はしょせんは女神。素盞鳴尊の深い志を察して罰を与えるゆとりすらなく、
天職も誇りも捨てて岩戸へこもってしまわれた。王仁三郎がこの事件について口ごもるのは、触れようとすれば非を皇室の祖神天照大神に重ねて帰せねばならない。
しかし王仁三郎は、天照大神と機について、重大なことを示唆している。
「ここで機を織るということは、世界の経論ということであります。経と緯との仕組をしていただいておったのであります。すると、この経綸を妨(さまた)げた。天の斑馬、暴れ馬の皮を逆はぎにして、上からどっと放したので、機を織っていた稚比売(わかひめ)の命は大変に驚いた。驚いた途端に竣に秀処(ほと)を刺して亡くなっておしまいになったのであります」(『霊界物語』一二巻二九章「子生の誓」)
単に血だらけの馬を落として驚かす単純な悪戯などではない。素盞鳴尊が天照大神の経輸を妨害したと、王仁三郎はいっている。もしそうであれば、まさしく素盞鳴尊は天下の大罪人である。が、も一つ底があるかも知れない。合せ鏡の元、天照大神の経論そのものが国祖の律法から見て間違っているとすれば・・・。
瑞御霊(みずみたま) 千座(ちくら)の置戸を負わせつつ 世人の犠牲と降りましけり
機の仕組
筆先には、「機の仕組」について、しばしば説かれている。「にしきの機の下ごしらえであるから、よほどむつかしきぞよ。このなかにおりよると、魂がみがけるぞよ。みがけるほど、この中は静かになるぞよ。機の仕組であるから、機が織れてしまうまでは、なにかそこらが騒々しいぞよ。にしきの機であるから、そう早うは織れんなれど、そろうて魂がみがけたら、機はぬしがでに(一人で)織れていくぞよ」明治三三年旧八月四日(『大本神諭』「第二集L)
にしきの機とは、綾錦の布を織ることをさすが、みろくの世に至る道程を、さまざまに織りなしていく人々の苦節を色糸にたとえ、象徴的に表現したものであろう。機は経糸と緯糸で織り成されるが、
出口直と王仁三郎のふたつの魂の要素ともいうべきものが、経と緯の関係になぞらえる。
経糸 出口直 艮の金神 変性男子 厳の御霊
緯糸 出口王仁三郎 坤の金神 変性女子 瑞の御霊
対立し、ぶつかり合い、からみ合うふたつの個性や生きざまの鮮やかな対照がいつのまにやらそのまま組みこまれて、大本の教義を成していく。直にかかる神の啓示と王仁三郎にかかる神の教えが、火と水、男子と女子、父と母、天と地、小乗と大乗、ナショナルとインターナショナルというように、まったくあい反しながら、機の経糸、緯糸となって織りなされてゆくのである。
「古き世の根本のみろくさまの教えをいたさなならん世がまいりきて、にしきの機のたとえにいたすのは、変性男子のお役は経のお役で、初発からいつになりてもちっとも違わせることのできんつらい御用であるぞよ。変性女子は機の緯の御用であるから、きとくが落ちたり、糸がきれたり、いろいろと綾のかげんがちごうたりいたして、何かのことがここまでくるのには、人民では見当のとれん経綸がいたしてあるから、機織る人が織りもって、どんな模様がでけておるかわからん経論であるから、出来あがりてしまわんとまことの経論がわからんから、みなご苦労であるぞよ」大正五年旧九月五日(『大本神諭』「第五集」)
この筆先には、経緯の役目の相違がはっきりと示されている。経糸は、いったんピンと張り終ると、後はびくとも動くことはできぬ。それが経糸の役目である。
国祖国常立尊の至正、至直、至厳なやり方に対して不満の神々が天の大神に直訴する。天の大神もついに制止しきれず、「もう少し緩和的神政をするよう」説得したが、国祖は聞き入れぬ。もしそこで聞き入れてゆるめれば、機の末は乱れきるのが目に見える。たとえ天の大神のお言葉を拒もうとも貫く、これが機の仕組の経糸のつらい役目なのだ。
経糸が張られれば、後は緯糸のお役。緯糸は、張りつめた経糸の聞をくぐり抜ける度に筏(おさ)で打たれながら、きとくが落ちたり、糸が切れたり、梭のかげんが違ったりしつつ錦の機の完成まで動き続ける。これまたいっそうつらい役。
経と緯というのは、すべての物事の成り立ちのぎりぎり決着の表現であろう。いかなる文化も経と緯、時間と空間のないまじりから成る。「縦横無尽の活躍」というのも、自由自在な働きの根底が経と緯とで構成されていることを示す。
大本的表現をすれば、この錦の機を織り上げるのが神業であり、人間は一筋の糸として参加するため、この世に生まれてきたのである。この地球上で人聞が創造している文化(政治、経済もふくめ)は、それぞれ勝手にやっているようで、実は織られているのだ。短い糸をつなぎ、より合わせていつか時代の流れの色模様が染め上げられていく。
経と緯とがうまく整い、見事な布が織られていくことを「まつりあう」という。政治を、日本古来の言葉では「まつりごと」と称した。天と地、神と人、霊と体との均り合いが真にうまくとれることが政治の理想であろうが、神に対する祭りも同様である。その意味から見れば、現今の文化のいっさいは均衡を欠いており、人聞の我欲だけが一方的に突出して、歪んでしまっていはしないか。
筆先では、大本の機は日本の、世界の雛型となるべき錦の機という。少しのゆがみも許されぬ経糸はもちろん、我がなければならず、あってはならずで、打たれ打たれて織られていく緯糸の過程の苦きゆえに、魂に磨きがかかるのであろう。醜い我欲を捨て、織り手の心のままに澄んでいけば、錦の機は自然に完成していくと、筆先は繰り返し教えている。
たてよこの 神のよさしの綾錦 機のかがやく世とはなりけり
綾の機 織る身魂こそ苦しけ一れ 一つ通せば三つも打たれつ
謀略的岩戸聞き
高天原の司がすべてを投げ捨て岩戸にこもっては、世は闇夜となりはてる。万の災禍も起こってきた。そこで八百万の神々が安河原に集まって思金神(おもいかねのかみ)に知恵を傾けさせる。長鳴鳥を鳴かせ、さかきの上枝にみすまるの玉をかけ、鏡をつけ、下には白や青の布を垂らしておき、太祝詞を奏上した。天宇受売命(あめのうづめのみこと)が伏せた桶の上で、足をふみとどかし、胸乳もあらわに踊り狂ったので、高天原も揺れるほどに神々はともに笑った。天照大神は不思議に思われ、岩戸を細目に聞いて声をかけられた。
「私がこもっているので、高天原は暗く、また世の中も暗いと思うのに、どうして天宇受売命は楽しそうに踊り、神々は笑うのか」天宇受売命は答えた。
「あなたよりも尊い神が出られましたので、みな大喜びで笑い遊んでいます」がたしかに岩戸の前には光り輝く女神がいる。それがさし出された鏡に写る御自身とは知らず、思わず戸より出てのぞかれたので、隠れていた天の手力男神がみ手をとって引き出し、布刀玉(ふとたま)命がしめ縄を張って「これより中に、もう戻らないで下きいと申し上げた。
岩戸は聞けこの世は明るく照りわたった。
まるで天照大神の日頃のお疑い深き嫉妬深さをみこして万神謀議の末、道具立ても抜け目なく、まんまと罠にはめて成功した。めでたしめでたしである。しかしこれが高天原随一の知恵者、思金神の出し絞った知恵というのか。それにしては幼稚な・・・そう思った時、逆に胸の暖まる心地がした。この物質世界でこそ人聞は有史以来、悪知恵を研ぎすまさねばならなかった。この程度の策略にころっとだまされる天照大神も、いっそ愛らしい無垢のお心ではないか。
岩屋戸の変以前の高天原は、そうした嘘やいつわりを知らぬ清い別天地であったろう。とすればこの天界に芽生えた邪気の初めは何か。一方的に被害者にされる天界の主宰神天照大神にまったく非はなかったのだろうか。王仁三郎は述べる。
「言霊の鏡に天照大御神のお姿がうつって、すべての災禍はなくなり、いよいよ本当のみろくの世に岩屋戸が開いたのであります。そこで岩屋戸開きが立派におわって、天地照明、万神おのずから楽しむようになつだけれども、今度は岩屋戸を閉めさせた発頭人をどうかしなければならぬ。天は賞罰を明らかにすとはこのことでございます。が、岩屋戸を閉めさせたものは三人や五人ではない、ほとんど世界全体の神々が閉めるようにしたのである。で、岩屋戸が開いたときに、これを罰しないでは、神の法にさからうのである。しかし罪するとすれば、すべての者を罪しなければならぬ。すべての者を罰するとすれば、世界はつぶれてしまう。
そこで一つの贖罪者を立てねばならぬ。すべてのものの発頭人である、贖主(あがないぬし)である。仏教でも基督(きりすと)教でもこういうのでございますが、他のすべての罪ある神は自分らの不善なりし行動をかえりみず、もったいなくも大神の珍の御子なる建速須佐之男命お一柱に罪を負わして、髭を切り、手足の爪をも抜き取りて、根の堅洲国へ追い退けたのであります」(『霊界物語』一二巻三O章「天の岩戸」)
みずから悪神の仮面をかぶり、千座の置戸を負って、怒れる神々に髭をむしられ、手足の爪まで抜かれて高天原から追放される素盞鳴尊。その推理は、国祖国常立尊の御退隠と重なって、何がまことの善なのか悪なのかを、この世の根源にさかのぼって問い直したくなる。
姉神をふくめた万神と地上人類の罪の贖主として甘んじて処刑を受けられた素盞 鴫尊こそ救世主、救いの大神として、王仁三郎は位置づける。もとより国祖は、この岩戸の開き方が気に入らない。筆先はずばり指摘する。「まえの天照皇大神宮どののおり、岩戸へおはいりになりたのをだまして無理にひっぱり出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇受売命どののうそが手柄となりて、この世がうそでつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり」明治三八年旧四月二六日(『大本神諭』第四集)
神代の昔から、こうした嘘や偽りで日の大神をだました上、力にまかせてひっぱり出し、それを手柄として自分たちの謀略を省みようともせぬ高天原の万神たち。神がこうだから、神に誠心がないから、それが地上世界へ写って人民が悪くなる。目的さえよければ手段を選ばぬ今の人民のやり方が、どれだけ世を乱すもととなっているか。
人民ばかりが悪いのではない。神、幽、現界を含めて三千世界を立替え立直す。まずその根本を正してこの世を造り直させよう。これがどうやら国祖の御意志らしい。
さすが剛直をもってならしたお方であり、八百万の神々に煙たがられ、ついに艮へ押し込められたお方だから、岩戸聞きのやり方はもとより、現界の、ことに上に立つ人々の利己と欺瞞にどんなにか我慢がならなかったことであろう。
時は今、再び岩戸が閉められる。明治二五年に国祖は出口直にかかり、第二の岩戸聞きを宣言した。それは立替え立直しと共通項でくくられるものであり、相互に内的関連性を持つといえよう。
ではどうした方法で第二の岩戸を聞くのか。神代の岩戸聞きの過ちを再び繰り返さぬためには、愛と誠で開くよりない。王仁三郎は示す。
「天の岩戸の鍵をにぎれるものは瑞の御霊なり。岩戸の中には厳の御霊かくれませり。天の岩戸開けなば、二つの御霊そろうてこの世を守りたまわん。さすれば天下はいつまでも穏やかとなるべし」(『道のしおり』「第三巻」上)
素盞嶋尊の願っている理想世界とは何か。尊が八岐の大蛇を退治し櫛名田姫を得、出雲の須賀に宮を作った時の歌に集約されている。
「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」
この歌が和歌の始まりといわれる。一般的解釈は字句通り、雲の沸き立つ出雲の地に宮を建て妻を得た感動を歌ったものとされるが、王仁三郎はその歌に特別の密意を読みとっていた。
「出雲」はいずくも、「八重垣」は行く手をはばむ多くの垣、妻は秀妻、すなわち日本の国、だからこの歌は素盞鳴尊の嘆きと決意を示したものとなる。
「伊邪那岐尊から統治をゆだねられたこの大海原、地上世界には八重雲が立ちふきがっている。どの国にもわき立つ邪気が日の神の光をさえぎるばかりでこの世は曇りきっている。秀妻の国の賊(八岐の大蛇)は退治したものの、さらにこの国を八重に閉じこめている心の垣 その八重垣をこそ、取り払わねばならぬ」
人類の歴史は、いわばいかに頑丈な垣根をめぐらすかに腐心してきた。神代の昔、すでに姉と弟の間にも越えがたい垣根がはばんで文明が開化すればするほど、われわれは多くの垣根を作って生きている。
国と国が、人類同志が、民族間、階級間、その上宗教の違いまでが生み出す心と心の垣。そのさまざまな八重垣を取り払い、焼き減ぼすのが、素盞鳴尊の目ざす火(霊)の洗礼、「みろくの世」ではないだろうか。
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