皇道大本と大正維新への展開

島薗進『明治大帝の誕生――帝都の国家神道化』春秋社、2019年5月刊、第24章

<出口王仁三郎と大本教 >

二・二六事件を起こした皇道派の陸軍若手将校が同世代の軍人達が軍部独裁の方向を作っていくが、彼らが掲げた「昭和維新」は実は、出口王仁三郎が唱えた「大正維新」の影響を受けていた。その大本教の出口王仁三郎は京都府亀岡に近い穴太 あなお の農家の生まれで、本名は上田喜三郎である。満二九歳の一九〇〇年に出口なお(一八三七~一九一八年)と出会い、なおの信仰集団に加わり、やがてなおの娘のすみと結婚し、出口王仁三郎と名のった。なおと王仁三郎はともに大本教を育てていくが、なおの生涯の記録からは天皇崇敬をうかがわせるものは見当たらない。神がかりして「艮の金神」を感得した彼女が理解する日本の神話は、天照大神以前の神々に権威を与えようとするものだった。原初の神であるクニトコタチノミコト(国常立尊=艮の金神)、そしてスサノオやオオクニヌシの系譜の出雲系、国津神系統の神の系譜を引く宗教だった。日露戦争の頃までの王仁三郎もなおの救済思想の枠内で、独自の救いの論理を探っていた。

(安丸良夫「出口王仁三郎の思想」『日本ナショナリズムの前夜』

朝日新聞出版、一九七七年、拙稿「悪に向き合う宗教」島薗編『思想の身体 悪の巻』春秋社、二〇〇六年) 。

出口なおに接して従うようになった信徒が多かった明治時代末の段階の大本教は、京都府の綾部を中心とした小さな地域的な団体に留まっていた。ところが、王仁三郎は出口なおの周りの信徒たちと対立し、彼らのどろくさいやり方では発展性がない、また、内務省や警察等からの抑圧も避けられないと考え、一九〇六年に京都の皇典講究所分所に入る(現在の学校法人京都皇典講究所 京都國學院)。

拙著『国家神道と日本人』(岩波書店、二〇一〇年)でも述べたが、皇典講究所は一八八二年に設立された神職養成所で、その上位機関が國學院(一八九〇年設立)である。皇學館と並ぶ国家神道の教育機関である。八五年に設立された京都の皇典講究所分所で、王仁三郎は皇道論をしっかり身につけ、〇七年には織田信長を祀る建勲神社の神職も務めた。

<皇道大本と「大正維新について」 >

一九一二年に大本は教団名を「皇道大本」とし、その後、大本教は大正初期に急速に発展する。一九一六年には皇道大本に改称した。「皇道」を名乗った宗教教団として早く、また際立った発展例である。王仁三郎は一九一七年に「大正維新について」という文章を発表している。 皇道大本の目的は、世界大家族制度の実施実行である。畏くも天下統治の天職を惟神に具有し給う、天津日嗣天皇の御稜威に依り奉るのである。先ず我国に其国家家族制度を実施し、以て其好成績を世界万国に示して其範を垂れ、治国安民の経綸を普及して地球を統一し、万世一系の国体の精華と皇基を発揚し、世界各国咸 みな 其徳を一にするが皇道大本の根本目的であって、大正維新・神政復古の方針である」『出口王仁三郎著作集』第二巻、一五五ページ) 。

「経綸」という語を頻繁に用い、国家や世界の政治的運命が神の意志に基づき展開していくという 神的歴史(救済史)の観念を展開している。古事記こそ「世界経綸」の根本聖典だとし、ニニギノミ コト(瓊々杵尊)以来、一八〇万年にわたって「世界の文明開発して、天下統治の神権を行使すべき時運の到来を待」っていたという。「実に世界統一の神権は、万世一系・天壌無窮に享有し給うのであ る」とも述べており、神聖天皇による世界救済を信じているかのようである。

大正前期の出口王仁三郎は、このように皇道論を前面に押し出し、神聖天皇のもとでの世直しを説くことで、大本を正統的な国体論に引き寄せていた。にもかかわらず、大本教は一九二一年に弾圧される。王仁三郎こそが救世主だとの信仰を疑われたのだ。たとえば、一九一六年に入信した東京帝大卒の英文学者、浅野和三郎は『大正維新の真相』(大日本修斎会、一九一九年)で、王仁三郎の居る綾部こそが新都であり、世界救済の中心地だと説いていた。 綾部は事々物々悉く神界の中央政府から直接神勅を仰ぎ、之に拠りて世界一切の問題を解決し、 実行する『神の高天原』である。綾部を預言でもする所だと思ふと甚だしき勘違ひだ。預言では なくて実言だ。世界の事は、総て爰で決議され、又爰で遂行さるゝのである。遂行に先立ちて、 神界の決議計画の一部が予め警告的に人間界に発表さるゝ事もあるが、それは神界としては寧ろ 臨機の手段である。神界は飽まで沈黙の裡にグイ/\実行に掛られる。

<二度の弾圧事件と皇道論の力の増大 >

こうして平沼騏一郎検事総長の指揮による第一次大本事件が起こる。しかし、王仁三郎が率いる大本教団はこの第一次大本事件もうまくすり抜けるようにして勢力を回復し、再び教団名を皇道大本とし、二八年には弥勒祭を行なっている。これは救世主である世直しの弥勒仏の祭典で、王仁三郎は「自分こそ弥勒の化身だ」とほのめかしたことになる。その一方で天皇こそ世界を救うとして「皇道」をも説いたのだ。 大本はその後もさらに急成長を遂げ、一九三〇年代には大教団に発展する。一九三一年には右翼の 活動家、内田良平らと組んで、昭和青年会という右派民間団体を作った。それが一九三四年に昭和神 聖会となる。綱領に「皇道の本義に基き祭政一致の確立を期す」等と掲げるもので、会員は八〇〇万 人いたとされる。このように神聖天皇による日本の発展、そして皇道日本による世界救済を願う若者 たちが集う時代となる。そのような気運を引き寄せるのに、国柱会や大本教は大きな役割を果たした のだ。 一九三五年に治安維持法によって王仁三郎ら一千名近くが検挙され、本部施設が破壊されるなど、 徹底的な弾圧を被ることになる。これが第二次大本事件だ。クーデター未遂の二・二六事件(一九三 六年)と宗教団体弾圧の第二次大本事件は性格がだいぶ異なるが、どちらも宗教性を帯び、神聖天皇 を掲げていながら、実は反体制運動でもあった勢力が厳しく取り締まられることになった。だが、そ れは体制自身がますます皇道色を強めるのと裏腹だった。 国柱会と大本教は、それぞれ「国体」「皇道」を掲げる宗教運動が、大きな政治的影響力をもった ものだ。全体主義化が進む時期に天皇崇敬を掲げる下からの運動を展開し、政府を脅かした集団だ。 その両者がともに、日露戦争から乃木殉死に至る時期に、「国体」や「皇道」の方向に大きく舵を切っ たのは偶然ではないだろう。

参考文献 安丸良夫「出口王仁三郎の思想」『日本ナショナリズムの前夜』朝日新聞出版、1977 年、 島薗進「国家神道とメシアニズム――「天皇の神格化」からみた大本教」安丸良夫他編『岩波講 座 天皇と王権を考える4 宗教と権威』岩波書店、2002 年

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