入蒙を考える(その四ー③最終回)―エルサレム行きとは―藤井 盛
「平和を出(いだ)さむ為では無い。刃(やいば)を出さむ為に来(きた)れり…信仰の為ならば、地位も…一切捨てる覚悟…家庭を円満に…功利心…真(まこと)の神様に触れる事が出来ませうか」
(六十四巻下一章「復活祭」)
〔僕の人生〕労働者から搾取する不労所得者の資本主義を激しく批判した内容もある六十四巻下は発禁となった。また、校正本では「君の仁政」が「僕の人生」に変更されている。
「僕の人生はどこにある…資本主義なる世の中は…不労所得者の賜(たまもの)だ…無数の吸盤で吾々の 生血を吸(す)ふたり膏(あぶら)をば ねぶつて喰(くら)ふ資本主義 制度の此(この)世(よ)にある限り 君(きみ)等(ら)も吾(われ)等(ら)も助からぬ」 (六十四巻下八章「擬侠心」)
〔キリストを十字架に付(つ)けたのは〕世界を漂浪していたユダヤ民族がイスラエルを建国し、軍事力を強化して、現在のハマスとの紛争に至る様(さま)をNHKで見たが、キリストを救世主と仰がず、十字架に釘付けにしたのはユダヤ民族だけでなく、全人類だとある。
なお、大本第二次事件も、キリストの再誕たる出口聖師にとって、人類の罪の贖い主としての十字架への釘付けではなかったか。
「イスラエル民族…二千六百年の間…世界を漂浪…キリストを十字架に付けた彼等の祖先の罪業の報い…は余り残酷過ぎる…人類全体…キリストを救世主と仰がなかつた…キリストの懐(ふところ)に帰つて罪の赦(ゆる)しを乞ふこと」
(六十四巻上七章「巡礼者」)
○出口聖師のエルサレム行きとは
ブラバーサはキリストの再誕と再臨について述べている。
「メシヤの再臨は世界の九分九厘に成つて、此エルサレムの橄欖山上に出現されることと確信いたして居ります。既にメシヤは高砂島の桶伏山麓に再誕されて居りますよ。再誕と再臨とは少しく意義が違ひますからなア』
(六十四巻上二章「宣伝使」)
メシアは既に出口聖師として再誕されている、メシアがエルサレムに再臨されるのは「世界の九分九厘に成つて」からとある。
ところで、エルサレムでのブラバーサによる宣伝で、世界中へ救世主の名が知れ渡る。
「ブラバーサは…三五教の大宣伝をなし、其名を遠近に轟かし、数多の信者を集め…日の出島における救世主の名声は、地球上隈なく知れ渡り」 (六十四巻下二二章「帰国と鬼哭」)
宣伝使の活躍で救世主の名が世界中に行き渡り、御教えも宣伝されれば、結果的に救世主がエルサレムに再臨したと同じなのではないか。
私は、入蒙を考える(その三)でこう書いた。
「出口聖師は、松陰が発揮した活動力を信徒に求めたのか、入蒙についてこう示されている。
『卑劣で柔弱で…真の勇気が』ない信徒を、『神の聖霊の宿つた活きた機関として…活動せしめむと…模範を示す為に…蒙古の大原野を…開拓すべく』 (二章「神示の経綸」)」
出口聖師のエルサレム行きの発言は、この延長線ではなかったのか。卑劣で柔弱で真の勇気がない信徒を、エルサレムで活躍したブラバーサのような立派な宣伝使とするために、あえてエルサレム行きを出口聖師は言われたのではないか。
出口聖師のその意気込みに、入蒙百年後の我々も応えなければならない。「世界の九分九厘に成つて」から再臨すると言われたメシアの御教えを、我々は勇気をもって、神の聖霊の宿った活きた機関として宣伝しなければならない。エルサレムに行った時には勿論(もちろん)のこと、世界に向けても。
【余録】
六十巻の「三美歌」は、キリスト讃美歌をベースにしている。御自身がキリストの再臨であることを、出口聖師が示されたものの一つと考える。
三美歌には、( )でキリスト讃美歌の譜番号が付され、歌えるようになっている(ただし、現行の譜番号とは異なる)。また、その三美歌の内容もキリスト讃美歌を受けたものになっている。
なお、『綾の機』には、大本三美歌が楽譜とともに載せてある(楽譜は『綾の機』第47号)。
これを、キリスト教系短大に行った妻が持っていた讃美歌と照らし合わせてみたところ合致した。
妻が生きていた時に、讃美歌を歌うのを聞いたことはなかったが、孫たちに幼児向けの曲を歌っていたのは聞いた。
「幼児向けの曲に合わせて妻歌う孫に聞かせる声はソプラノ」 (「愛善歌壇」平二八年七月号)
(令6・3・21記)
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