入蒙を考える(その1の①) ―みろくの世の宝―
○杖立温泉と神功皇后
今年令和六年(二○二四)は、出口聖師が大正十三年(一九二四)に入蒙されて百年目に当たる。
一方昨年は、大正十二年(一九二三)に出口聖師が熊本県の杖立温泉で御手代を出されて百年目に当たった。十月二十九日、山鹿市の瑞霊苑で開催された平和祈願祭があった夜、出口聖師がお泊まりになられた杖立温泉の白水荘に弟と泊まった。そして、出口聖師も入られたであろう白水荘の岩風呂に浸かった。
この杖立温泉に息(おき)長(なが)帯(たらし)比(ひ)女(めの)命(みこと)、つまり神功皇后が入られたと霊界物語特別編「入蒙記」にある。
「三韓征伐に由緒ある息(おき)長(なが)帯(たらし)比(ひ)女(めの)命(みこと)の入浴されしと伝ふる杖立の霊泉」
(三章「金剛心」)
この「杖立の霊泉」だが、出口聖師が泊まられた白水荘の真下に「元湯」という露天風呂がある。神功皇后が応神天皇を出産された際、この「元湯」を産湯として用いられたと伝えられている。白水荘に出口聖師が泊まられた理由が、実はここにあったのかもしれない。
なお、二十年前に妻と白水荘に泊まったが、この元湯に女性二人で入ったと後から妻に聞いた。元湯は、杖立川に沿った道に面しており、男性が入って来そうになったという。妻たちの度胸は神功皇后並みである。
○神功皇后の神懸かり
古事記に、神功皇后に天照大神と住吉三神の、いわば厳瑞二霊が懸かられる場面がある。
「建内宿禰(たけのうちのすくね)…『今かく言(こと)教へたまふ大神は、その御名を知らまく欲(ほ)し』とこへば、すなはち答へて詔りたまひしく、『こは天照大神の御心ぞ。また底(そこ)筒(つつの)男(お)、中筒男、上筒男の三柱の大神ぞ』」
出口聖師は、神功皇后の神懸かりに「一厘の仕組」が示してあると言われている【註1】。
出口聖師は、このように神功皇后を重要視されるとともに、神功皇后は、出口聖師の産土神社である小幡神社の御祭神開化天皇のひ孫の娘という出口聖師との関係の深さもある。
ところで、この神懸かりがあったのが、大本山口本苑から北に十キロメートルにある標高七一三メートルの華(げ)山(さん)山頂ではないかと思わせる民話【註2】が、地元に残っている。
神功皇后の夫、仲哀天皇は、西暦一九三年から七年間、南九州の熊襲鎮圧のため現在の下関市にあった仮の皇居「豊浦(とよらの)宮(みや)」に滞在されたと言われている。華山は「豊浦宮」から直線距離で北に二十キロメートルしか離れていない。
民話では、その山頂で熊襲鎮圧の軍議を仲哀天皇が開いたとある。天皇ら一隊が華山に向かい船で川を上り、十二艘の舟が着いた所に「十二艘」という地名が残る。さらに馬に乗った所には「馬立処」の石碑が今も建っている。
九年前の平成二十七年三月、愛善苑の村山浩樹氏と華山に登った。本州西端にある山口県が三方を海に囲まれているのを、実際に頂上から確認することができた。天皇ご夫婦もご覧になったであろう。
神懸かりで、神功皇后はこうも述べている。
「西の方に國有り。金銀(くがねしろがね)を本(はじめ)として、目の炎耀(かがや)く種種(くさぐさ)の珍しき寶、多(さは)にその國にあり。吾今その國を歸(よ)せたまはむ」(歸(よ)せ‥帰服)(古事記「仲哀天皇」以下同じ)
西の国に、金銀などの宝が多くあると神功皇后は述べている。これも「一厘の仕組」となるのであろう。一方、仲哀天皇は海しか見えないと言われ、やがて亡くなられる。
「高き地(ところ)に登りて西の方(かた)を見れば国土(くに)は見えず、ただ大海あるのみあり」
山頂には、仲哀天皇の亡骸(なきがら)を仮安置した殯(ひん)葬所もある。あたかも古事記を証明するかのような世界が、私たちのすぐ近くにある。
【註1】木庭次守著「新月の光(かげ)」八幡書店版下巻三○一)
【註2】「小日本昔話」菊川町教育委員会
○神功皇后と三韓征伐
神功皇后は「寶、多(さは)に」ある国を「歸(よ)せたまはむ」、つまり帰服させようと述べている。これが三韓征伐となるのであろう。
入蒙記で「三韓征伐に由緒ある息(おき)長(なが)帯(たらし)比(ひ)女(めの)命(みこと)」と神功皇后が説明されているが、三五(おほもと)神諭にも神功皇后が出て来る。世界を見据えた印象を受ける。
「明治三十二年旧七月一日
艮金神国常立尊が、神功皇后殿と出て参る時節が近よりて来たぞよ。此事が天晴れ表に現はれると、世界一度に動くぞよ。…世界の人民に改信致させる仕組であるから…艮の金神はカラ天竺までも鼻が届くぞよ」
(六十巻二一章「三五神諭その二」)
また、史実においても、実際に神功皇后が三韓に攻め入ったのではないかとする説がある。明治十三年、三韓時代に高句麗があった所で「広開土王(好太王)碑」が発見され、その碑文に、倭国が三九一年に朝鮮に攻め込んだという記述がある。
碑のある場所は、その後の満州国の領土となっており、また、入蒙のルートとにも近い。神功皇后が辿られた道と入蒙のルートが重なったところがあったに違いない。
なお、山口県内には、神功皇后の三韓征伐にちなんだ地名などが残っている。
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