大本事件の解釈について
大本信仰に関わるみろくの大神のお仕組みに直結する内容であり、正しい解釈が必要であります。
大正天皇には子種がなく、1899年公爵毛利元徳(もとのり)の八男が、伊藤博文の仲介により、公爵西園寺公望の養子となり西園寺八郎と名乗り、死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた。伊藤博文は権力者として、明治天皇から昭和天皇までデッチ上げたことになる。
1921年、第1次大本事件は宮中某重大事件で、聖師が鶴殿親子より皇室へ、問題なしと伝え、伊藤後の権力者山縣有朋が失脚した恨みから事件を起こした。(霊界物語第52巻、応対盗に詳しい)
大本内部でも鎮魂帰神法の改め、霊界物語の口述開始となり、教義と異なる谷口雅春、浅野正恭、浅野和三郎、岸一太らの離反となる。
第2次大本事件は全国組織の昭和神聖会発足により、ご落胤である聖師が表舞台に立ち、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると判断した西園寺公望の犯行である。1935年6月御前会議で大本弾圧が決定された。弾圧のやり方は叩き潰す。日本宗教史上稀にみる醜いやり方である。細部にわたって公望は指示したとされ、1940年死去する。審神された天皇制の破綻が15年戦争の結果となる。
聖師は大本教義が本当に理解出来る信者は50名しか居ない、第3次は身内から起きると預言されており現実となった。お筆先にも、悪の御用は外部でなく出口の家の者にさせると書かれている。
大本三代の御用が余りにも重すぎたかも知れない。生まれながらに木花姫の精霊の下った肉宮とされ、水晶の種と崇められ、最初の結婚も本人の意志とは関係なく、弾圧で父母は未決に収監され、2度目の夫・日出麿は厳しい拷問で正気を失った。1943年 日向良広との間に生まれた楯彦ちゃんが5才で病死。木庭氏の新月の光、聖師様の餞別に詳しい。
第3次事件の背景には1963年頃の平和運動の停止があり、200名にも及ぶ出口家などの人員が整理され教団一つに詰め込まれ、役職が限られた事が大きい。京太郞などは梅松教会なる宗教法人を設立し今日に至る。1936年生まれの京太郎は日向良広に教育され、教団の乗っ取りを謀り、出口虎雄、杭迫軍二、山本荻江、宇佐美龍堂らと三代を追い詰め、1982年、道統を変更させる。
聖師がみろく様として、現世的には北朝の天皇として現れ、第1次事件で126日、第2次事件で6年8ケ月もの長期間拘禁された。
大本事件はお仕組みであり、悪霊との闘いでもある。
3度の事件の発端には、いずれも出生の秘密があり、大本信仰に直結する試練、考察の難しさがありますね。
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