大本第2次弾圧の詳細 ③最終回
昭和20年8月15日、日本は敗戦した。明治から三代にわたった天皇制支配は崩壊した。王仁三郎は<こうならぬとこの神は世に出られぬ。興奮して眠られんのじゃ、筆先に陣引とあるやろう>と側近に語った。国民大衆は茫然として焼土に立ちつくした。大本信者は古き時代の絆をたち新しい世をひらくスタートの日として<この日>を受け止めた。<日本はな、世界を一軒の家にたとえると神床にあたるのや、神床が非常に汚れて塵埃がたまって掃除をせねばならぬ。日本人にやらせると血で血を荒う騒ぎを繰り返し出来はせん。神様はマ元帥という荒男を連れてきて掃除させるのや、次に座敷の朝鮮と中国や。庭先の掃除はソ連や米国にあたるのや。>しかし支配勢力は敗戦の意味がわからず、天皇制と国体維持の為、旧支配体制の温存を図り東久邇宮を首班とし、不敬罪を諦めなかった。天皇がマッカーサーを訪問した記念写真は発禁処分となり、天皇制廃止を主張するものは共産主義者とみなし、治安維持法により逮捕するとさえ述べた。10月8日、GHQはポツダム宣言を無視だと、思想・信教・集会・言論の自由に対する制限の法令・制度の撤廃を指令した。10日に国事・政治犯の釈放、17日に大赦令を交付施行した。天皇の名で有罪とされた大本不敬事件は、一次6年、二次10年と十六年にわたる暴挙にピリオドが打たれた。敗戦・天皇制崩壊という歴史的事件によってもたらされた。
東久邇宮は総辞職の日記に、<天皇の名で重刑にされた人々を連合国の指令で釈放するのでなく、天皇の名で許すこと。>と捨て台詞を残している。上告審の判決後、弁護人達は、無謀な破却と長期拘留に対し国家権力に補償を求めた。王仁三郎は<事件で大本は戦争に関与せず、人類の平和に発言権を与えられた。神様の摂理でありがたいと思っている。敗戦後生活に苦しんでいる国民の膏血をしぼるような事をしてはならない。>と述べ、補償の請求をやめさせた。昭和20年当時で3億円、今日換算すれば3,000億円という巨額になった。弁護人達は<これが本当の宗教家だ>と感激したが、あまり世には知られていない。一次弾圧から世間に流布した金目当ての宗教という邪教感がいかに誤解・中傷であったかがよくわかる。綾部の神苑跡は何鹿(いかるが)郡設グランド、亀岡は京大付属植物園が内定していた。一坪といえども、神の聖地を失うことは出来ないと和解の申し入れを断り、無条件返還を綾部・亀岡両町と交渉し、大本の手に還った。官憲は温情を押し付け、過去を糊塗しようとしたが、本来の国家的大事件は、むしろ公正な判決で終わるべきだった。
<終戦によって、法的根拠が無くなり、あんな結果になったが、そうでなければ、あれだけの材料で処罰されておるべきだ。>とは内務官僚の昭和36年の言い分だ。弾圧を正当化し、天皇制官僚の抜きがたい発想は何一つ変わっていない。宗教と政治の関係上、重大な教訓である。人の心が変わらず、旧体制の幻影を今も追い続けている。天皇の神格否定宣言、押し付けられた平和憲法を改正したいとか、伊勢神宮・靖国神社の国家的な復活は、連合国が天皇を擁護し、戦争の原則・目的を覆した事に繋がる。
弾圧下の10年、日本の運命は一変し、悪魔の力は除かれて、大本は自由を回復し、神の示した立替え立直しの世になる事を信じ、権力や不法に屈せぬ反骨の精神が光り輝いた。
日本の敗戦により大本は再建を迎えたが、邪教大本の印象は長く拭われない。治安維持法が無罪、不敬罪が敗戦で解消した事を知る人は少ない。王仁三郎は昭和20年10月、事件解決後、初めて綾部の聖地に足を踏み入れ、本宮山の木々を眺めながら<全部叩き潰されたが、木だけが大きくなったなあ、木だけが残った>としみじみ語った。<桜の木は全部切ってしまえ、梅と松の木を植えるよう>軍国主義を象徴した桜の時代は終わり、綾部の神苑を梅松苑と命名した。<信者は教義を信じ続けたので、既に再建せずに再建されている>と語っている。奉告祭の式場は彰徳殿があてられた。弾圧後、綾部町が無断で建てた武徳殿で、綾部町から寄付され王仁三郎が命名した。参拝者は1,500人、遠来の信者に席を譲り、殿外を埋めた。祭員は国民服のまま質素な祭典で王仁三郎と澄子の先達により祝詞を斉唱、高木鉄男ら不幸にも殉教者となられた慰霊祭も行われた。
荒れ果てた本宮山は清掃され神殿の木切れや落葉を集め焼き、山のような灰が出来、事件の唯一の記念品として信者一人一人に少しずつ渡された。王仁三郎は<わしは花咲爺だ>と更生の花を咲かせよとの意味が込められた。破壊された瓦礫を寄せ集め盛土し<月山不二>が築かれた。今日もここを最高の聖所として、創造神(天の御三体の神)が祀られている。昭和21年の元旦、天皇は勅書を発表、過去の責任には一言も触れず、国民との相互の信頼・敬愛で結ばれると宣告し、国民は戸惑いを覚えた。天皇制神話を<架空なる観念>として、天皇の神格を否定したのである。天皇を頂く日本民族は世界で一番優秀で、世界を治める使命があるという八紘一宇の思想で、侵略戦争では日本の神々が降臨する必要があるとして、国家神道の神社を、中国・東インド諸島まで作った。満州皇帝溥儀は<わが半生>で民族固有の神と伝統ある信仰を奪われた悲痛な心境を切々と訴えている。
昭和15年、2度目の訪日の際、溥儀は<日満一徳一心、天照大神を満州国にお迎えして奉仕する>と誓わされ、天皇から模造品の三種の神器を渡された。神廟では天照大神に向かっても、心の中では北京の坤寧宮を拝んでいるんだと、自分に言い聞かせていた。天皇の神格否定宣言は国家神道体制が崩れ去り、不毛の原野に信教の自由が芽吹いた日本宗教史上画期的な出来事だった。王仁三郎が主張する日本民族の平和愛の精神とは<平和・文明・自由・独立・人権を破るものに向かって、あくまでも戦う精神>に貫かれたものである。未決の生活で身体をひどく痛めたが、不屈の魂は芸術へと吹き出る。作陶への意欲はのちの<耀盌>として社会から高く評価される。<森羅万象、いずれも神の力による偉大なる芸術的産物でその内面的真態に触れ、我が宗教・芸術がある>と説いた。短歌・俳句・書画・映画・演劇など幅広い創作活動も行った。絵を描く時は<岩を画く時は左手で押し上げるように、滝を画く場合は滝の落ちる速力でサッと筆を運ぶ。ゆっくりだと絵が死んでしまう。動物を画く時は死なないように鼻から描く>と述べている。
王仁三郎の昇天後、妻の澄子は<本当は彫刻がしたかったんや。体が弱っていて止めさしたんや。今となって何でもさしてあげたら良かったのになあ>と述懐している。王仁三郎が家族の目を盗んで作陶を始めたのは昭和19年暮からで、精魂込めた耀盌作りは3000個を超え、晩年を飾るにふさわしいフィナーレであった。明治政府は日清・日露の戦いで昂揚された軍国主義に便乗し官国弊社を創建した。天皇・南朝の武将・藩主・靖国・護国・外地の神社である。信仰の対象が真の神以外にはないのに、天地創造の本源神はほとんど無く、自分達に都合の良い人物を祀る神社に高い社格を与え、真の神をないがしろにしてきた。艮の金神の世、三千世界の立替え立直し、国祖国常立尊の隠退再現という大本信仰に対して、天岩戸開きの天皇制神話とは異質のものであり、国家神道の天照大神を主神としない。古き世の終りと新しい世の始まりが同時に示され、神人合一のみろくの世が展望されている。本来の主張を貫き、天皇制下で2度の弾圧を被り、世が変わり信教自由のもとに、艮の金神の経綸を現実化する御用が残っている。理想の世界は霊的だけでなく歴史的現実が待望され民衆的拡がりを求めてやまない。多くの殉教者に報いる道ではなかろうか。
大本事件は宗教弾圧として日本歴史上稀に見る苛酷なものであった。権力の本質に立ち向かう信仰の輝きは近代史上、注目すべき事件の内容を形作っている。教団にとっての教訓・意義と、日本ファシズムの実態が解明される。皇祖神となった天照大神を頂点とする、国家による神道国教化に対して王仁三郎の魅力・行動力が恐れられた。大本の教義・文献にない作為によって、天皇を呪咀した不敬・不逞が誤解でなく故意に曲解された。大本神諭に<時節には神もかなわぬ・時節を待ちて下されよ>の言葉がある。弾圧せる力が消滅し、時節の到来を迎え、立教精神を発揮することが可能となる世になった。
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