大本第2次弾圧の詳細 ②

内務省当局の見解は<皇道大本なる団体は、国体変革の目的を有する結社と見做して何等不当にあらず>という漠然としたもの。結社組織の証拠をでっち上げるのは検事の仕事だった。不遡及の原則で結社の時期を治安維持法の制定前、大正14年以降にする為、昭和3年3月3日のみろく大祭後の供え物から王仁三郎が大根や里芋を幹部に与え、密意を伝えたという。開教以来一貫した宗教の祭典に、新たな結社組織の事実はない。二審において無罪となる。1次弾圧に続いて不敬罪を持ち出す。<現世の君より外にきみなしとおもう人こそ愚なりけり><日の光り昔も今も変わらねど東の空にかかる黒雲>などを、皇室への呪詛とした。事実をよく調べず、自己流の解釈、身勝手な理屈である。不敬罪自体、一方的認定によって成立する仕組みであった。西園寺公望の秘書原田日記には<政治家達に盛んに手紙を出し、満州における紅卍字会と、軍の統制を乱し、不敬罪と治安維持法を適用される犯罪事実がある。>とした。王仁三郎は<大本弾圧の根本は主神を祀っていたからだ>と語っている。昭和天皇は事件後の昭和11年京都府知事に<検挙事件によって府民の信仰心に及ぼした影響はないか>とただしたという。

明治憲法が国家至上主義にたち、臣民の義務に背かない範囲でしか信教の自由は認めない。天皇制ファシズムの下では国策が立法、司法に優先していた。治安維持法や不敬罪という国家的事件について裁判所は政治的勢力と民衆弾圧の一翼を担った。証拠の採否、法の解釈・適用は判事に委ねられ、国策を投影させる権力が付け入る重要案件で当局が使う手口である。弁護人や新聞に圧力をかけ終始公判を非公開とした。王仁三郎の生涯は神の使命と信教自由の実現への苦闘だった。

裁判長:この事件は結社の組織罪が問題だ。たとえお前が死んでも結社を認めさえしなかったら、部下達は助かったかもしれぬ。お前の答弁を聞いていると、自分が助かりたいやり方に聞こえる。宗教家としてよいのか?

王仁三郎:禅宗の問答に<人虎孔理に墜つ>と言って、穴に落ち込んだ人がどうすべきかという問答がある。人間より虎の方が力が強いから、逃げてもじっとしても跳びかかって殺される。一つだけ生きる道がある。こちらから喰わしてやらねばならぬ。後に愛と誇りを残すのが、宗教家としての生きる道だ。

裁判長:その点はもうそれで宜しいと追求を打ち切った。

大本を弾圧した権力を虎にたとえ、教団や王仁三郎自身を虎穴に落とされた人にたとえて、予審で無理矢理、署名捺印された状況・弾圧に対する自己の態度を述べた。

王仁三郎は検事や予審判事が<皇室を倒して日本を統一するのだろう?>というから、<そんな小さい事を言ってくれるな、地球を統一して大宇宙から観れば、日本に例えれば日本の一番貧乏な家位のものだ。私は全大宇宙を腹に呑んでいるのだから>と答えてやった。<日地月星のだんごも食い飽きて、いまは宇宙の天界を呑む>と歌っており、当局の必殺の攻撃も意に介さない見識と抱負が伺える。

当局はクーデターの危機感から弾圧したのに、公判では教義に焦点を絞り、治安維持法で国体変革の教義と結社の事実を証明しようと焦った。

裁判長:みろく大祭後、リンゴ三つとったのは<日地月合わせて作る串だんご、星の胡麻かけ喰らう王仁口>の歌と考え合わせたら、妙な解釈が出来んかねと真面目に問いかけた。

王仁三郎:リンゴ三つですから、三リンです。仏の教えで身輪・口輪・意輪の三輪で、身体・口・心の戒律の事で、宗教家として守ろうとして。リンゴ三つ取りました。

裁判長:それでは、妻に大根をやった意味はどうかね?

王仁三郎:仏の教えに大根大機の菩薩、六度百行首榲限定を与うとある。人に二十二根あり、大本では代々女が教主で、役員信者に大根大機で利益せねばならぬという意味です。もう一つの意味は、私は入り婿で女房にあたられる亭主は嫌なもの、大根はなんぼ食べても腹が痛まぬし当たらぬもので、女房にちとあたらぬようにして呉れという事です。

法廷に笑いが漏れ、裁判長は<漫才みたいなことを言うな>と怒りっぽく注意した。

裁判長:幹部20名に親芋を一つずつやった意味はどうなのか?

王仁三郎:芋というのは、土の中で子供を殖やすものです。土の上に出ている葉は何時でも頭を下げて謙遜している。人に教えを説き模範にならねばならぬ幹部達に、芋にあやかり、人知れず徳を積み、施して行くという意味です。

裁判長:しかし芋をやる時、他の者に喰わせず一人で喰べよと言ったようだが。

王仁三郎:古語では、妻は吾妹(わがいも)と言います。自分の女房を人に喰わしたらいかんと、一寸しゃれたわけです。

ところが二審で王仁三郎は<一審で申したのはでたらめ、日本では、神様の祭りのあとの直会でお供物を分けて頂くのは昔からの習慣で、特別の意味はない。一審の裁判長はアナイでも言うてあげんと納得ゆかん人です。>と答えた。

断罪の決め手となる結社の組織が、リンゴ・大根・芋の持つ意味如何にかかるという、おかしな展開で

一審では政策的にこじつけて有罪とした。権力裁判の不見識を象徴している。

起訴事実の国体変革、秘密結社は当局のでっち上げ、予審調書は拷問による創作だと、昭和14年3月林逸郎弁護人は公文書偽造行使罪で検事総長宛、告発を行うが不起訴。第2弾として糾問した警察官9人を法廷に呼び出し追求したが、白々しい態度に出口すみ子は神懸りとなり、<天皇の番頭ではないか>と叱りつける。偽証の事実がはっきりした告発も、強権により不起訴。被告人達は順次釈放されたが、王仁三郎ら5人を釈放せず、社会的活動を封じ込んだ。公判の焦点、治安維持法適用の可否は一審判決直後の昭和15年3月、木村法相は、さらに改正をほのめかし、悪質思想犯、集団犯罪取締規定の新設を力説している。日中戦争はゆきづまり、太平洋戦争の間際だった。信者に対する風あたりはより深刻となる。昭和17年7月、大阪控訴院で治安維持法違反は全員無罪となる。<大本と称する結社を組織したりとの事実は、之を認むべき証明なきものとす>当局もその非を認め、昭和16年3月、治安維持法を改悪しており、結社の要件を欠いていた。

起訴事実を謬見・証左なしとの断定は、権力側の虚偽を公判で暴露したことになるが、布教施設は全て破壊され、大検挙から6年を経ても王仁三郎は釈放されず、大本の社会的機能は停止した。なお不敬罪の有罪は権力側の意図、裁判の本質であった。<皇道大本と称し、恰も大本が皇道の主体なる如く表示、果たして神国日本の惟神の道と合致し毫末の間隙なきや否や>の必要があるという。天皇制下の弾圧の必然性をほのめかしている。弾圧の必要性が有る限り、根本的解決は日本の敗戦を待つしかなかった。昭和17年8月、裁判長は保釈を決定した。二審の判事が<6年8ヶ月も勾留されて体力が衰えず実に朗らかで、信仰に徹している人は違う>と述懐している。大本側は不敬有罪を承服しなかった。権力側も治安維持法違反無罪を不服として上告し、大審院にもちこまれた。上告審は書面審理が原則とされ、昭和19年1月に双方から提出し審理された。昭和20年5月の東京大空襲で大審院が焼失、公判記録の大半が失われたが、判事が必要書類を持って審査を続けた。そして9月8日、上告棄却の判決が行われ、治安維持法違反無罪、不敬罪・新聞紙法違反有罪の二審の判決が確定した。

7年にわたる天皇制下での法廷闘争は不敬有罪を残して、一応の結末を告げた。昭和18年を境に、戦局は転換した。日本とドイツは総くずれとなり、王仁三郎は事態を見極め、歴史の大きな胎動を見通していた。身辺は要注意人物として監視の目が光り、側近の憂慮にお構いなく、時局から身の上相談に至るまで訪ねてくる信者を指導したり、戦争で犠牲になった人々の為に心を砕いた。<今度の戦争は生き残るのが第一のご神徳だから御守りをやる>と信者に与えた。空襲が日常化し、危険にさらされるようになってから、<東京は空襲されるから早く疎開せよ、京都・金沢は安全・空襲は受けない>と指示を与え、<広島は一番ひどい目にあう。新兵器の被害を受けて火の海と化し、戦争は終わりだ。帰ったらすぐ奥地に疎開せよ>と急がせ、信者のほとんどは原爆の難を逃れた。大本営が虚偽の報道を続ける中、破局に近づいている状況、降伏についても、<日本の敗戦後は米ソ二大陣営の対立や、米国の支配下におかれるがしばらくの間や、日本は負けても世界の鑑となる>など戦後の見通しを述べ、弾圧下で入信した有力な人々は多い。昭和20年正月<何が新年お目出とうや、新年敗けましてお目でとうございますや。なごうもっても6ヶ月やな。馬鹿な戦争をしたもんや>とつぶやいた。日本は東条・小磯国昭・米内内閣から鈴木貫太郎終戦内閣になる。王仁三郎は<ソロモン戦からソロソロ敗けて小磯づたいに米内(ベイウチ)に入る。小磯米内国昭(ようないくにあけ)わたすやな。日本は鈴木野(ススキノ)になるな。なごうは鈴木貫太郎(つづかんたろう)やなと末路をユーモアまじりに語っていた。

大本柏分苑

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