さよなら学ちゃん、いつの日かまた

後から考えれば背筋が凍るというか、ゾットすることがある。向う見ずにやろうとしたことをあとになって思いおこすとでもいうことか。僕にとってそんなことの一つは東大赤門焼き討ちだった。これは1969年の1月のことだった。暁部隊と称する日本共産党の面々が全共闘運動の拠点だった東大安田講堂を急襲したときのことだ。この急襲は日本共産党のトップとでもいうべき宮本顕治が直接指揮をしていたと言われる。宮崎学はこの時行動隊長のような位置にあったらしい。東大安田講堂の攻防戦が演じられるのが1969の1月18日・19日のことだからその直前ということになる。当時、大学占拠のバリケードをめぐる全共闘と民青(日本共産党)との攻防戦は日増しに高まっていたが、全共闘の部隊は東大駒場の防衛に出掛けていた。その隙をついての安田講堂急襲だった。隣の日大理工学部のバリケードの中には全共闘運動の全体の司令部も置かれていた。日本共産党の安田講堂急襲は安田講堂に籠る面々からの電話連絡できた。安田講堂にからの支援要請でもあったわけだが、全共闘の部隊は東大駒場に出向いていて空というか、誰もいなかった。日本共産党の部隊に対抗する部隊はいなかった。安田講堂からはひっきりなしに支援の電話がかかっていた。僕らは支援に行きたいと焦ったけれどもなすすべはなかった。

 この時、中大の学館には一台のジープがあることに気が付いた。誰かが持ち込んでいたものだが、何かと便利で使っていた。このジープを使って何かできないかを考えた。ジープで少数の部隊を乗せて突っ込んだところで勝負にならないことは明瞭だった。そこで考えられたのは東大赤門の焼き討ちだった。そうすれば、警察が動き、警察を恐れる日本共産党は引き上げるだろう、という目論見だった。日本共産党の急襲部隊が引き上げるには警察が動き出すことであり、それを誘導するために赤門を焼くということだった。平家の富士川の話のようなものだ。彼らは警察が動き出したと聞いただけで浮足立つだろうと想像していたのである。

それしか、思いつかなかったのである。こうした行為が何に結果するかは考えなかった。戦闘の場面での思いつきといえば、それまでだったが、そのために急きょ火炎瓶を用意し、数人のメンバーで待機していた。僕は責任者というか、キャップとしてあった。隣の日大理工学部のバリケード内にあった闘争本部には了承を得るための報告に行った、各党派(革マルを除く)の面々がいたらしいが、僕の属していたブンドはOKだった。あとの党派は肯定もせず、否定もせずというところだった、と記憶する。中核派には相談がいると逃げられた。

 いつ行動するか、待機していたのだが、やがて日本共産党の部隊は引きあげはじめたという報告が入って、結局、行動は行われなかった。日本共産党の急襲で安田講堂のバリケードが落ちる(解かれる)ことはないほど強固なものだったことを知れば(これはすぐ後の安田講堂攻防戦であきらかになった)、赤門焼き討ちなど無駄なことだったが、その時は安田講堂のバリケードがそんなものとは知らず、支援要請に応える方法としてはこんなことしか思いつかなかったのである。

 この行動は行われずにあったが、僕の中では記憶に残ることだった。宮崎学が『突破者』を出したとき、僕はその中に安田講堂急襲のことが書かれているのを発見した。僕は赤門焼き討ちのことを想起しながら、その部隊の指揮を日本共産党の最高幹部の宮本顕治がやっていたのに驚いた。日本共産党のバリケード排除は本気というか、本格的だったのだと思った。そして、彼らはどういう考えでその行動をやろうとしていたのか、思いがよぎった。全共闘のバリケードを本気で権力への挑発行為と思っていたのか、内心は何処かうらやましく思っていてその影響が自分たちの周辺のおよぶことを恐れての行為だったのか。このことはいつか機会があれば、聞いてみたいと思った。まぁ冗談でも宮本顕治に会う機会はないだろうが、宮崎学に会うことはあるだろうと思ったからだ。僕はその後、ロフトプラスワンでやっていたトークライブで彼にあうことができた。その後はいろいろと付き合うことになるのだが、この最初に会うときは幾分かの緊張があったと思う。この出会いは印象としていえばどこか中上健次に似ていたと思えなくはない。後に何度か中上に会わせたかったと思った。

彼は暁部隊という共産党の武装部隊を指揮して全共闘部隊との攻防の先頭にあったが、自身の気持ちとしてはあの当時の運動の高揚感があって、いわばその延長上にある行為だと思っていたという。新宿闘争としてよく知られる1968年の反戦闘争がある。1968年闘争のピークをなすものだった。このとき彼らは独自で2万人ほどを結集した闘争をやったが、彼はそこで、つまりは大衆的運動の中ですごい高揚感(表出感)をもった。この感覚は反権力意識といっていいし、社会や国家、その壁とぶつかるときの高揚感と言ってよかった。別の言葉で言えば現実意識としての反権力意識の表出だった。彼にとって暁部隊での行動はこれと地続きのようなものであったらしい。つまりは全共闘の面々を心的に支えていた反権力意識の表出感と共通していたものと言える。対象が支配権力から全共闘に替わるが、闘いの意識は変わらなかったということである。彼らは全共闘の行動が大学自治や学生自治会の破壊であり、それを守ろうとしていたのだという。全共闘は大学の自治(戦後民主主義)を乗り越えよとしていた。彼らはそれを守ろうとしていた。その敵対の中でも闘う面々にはそこにある種の共通のものもがあったのであり、そのことは僕には納得がいくものだった。当時は

様々の闘争があった。全共闘を先端とすれば、フォークゲリラ(新宿地下駅でのフォークでの抵抗表現)、各グループの集会とでも、それらは形態こそ違え、その参加者には共通するものもあったのである。

それなら彼が共産党の部隊の先頭にあったことはどうなのだろう。バリケードを挟んで全共闘(新左翼)的なものと、反全共闘(共産党)的なものが対立し、この対立がバリケード攻防の対立になっていた。反権力の意識、その現実意識が運動としてあらわれるとき、そこに理路や理念の媒介が必要となる。それは国家や権力が人々の現実意識とともに理念によって構成されているからであり、その変革には双方が必要だかである。近代の日本では反権力の側の理念を代表するものとして共産党的なものが大きな位置をしめていた。この伝統的左翼に対する疑念を僕は持ち、大きな枠組みでいえば、それに対抗する新左翼的な位置を持っていた。この対立がバリケードの対立をなしていた、そして、宮崎は対立する方の日本共産党にあった。このとき、宮崎学は共産党に自己矛盾のようなものを感じたらしい。彼は偶然の契機も含めて日本共産党に加わる。まだ、共産党が革命政党であるという事を信じていたのかどうかは定かではない。ただ、彼はかなり初期から日本共産党に欺瞞をかんじていたらしい。それを彼は嘘ということで表している。この嘘といういいかたにはいろいろの内容があるのだが、その疑念はかなり初期からあった。この嘘ということは党派的なものの嘘というか、欺瞞であり、彼は共産党の先頭に立ちながら、その意識を内部に抱えていたということである。共産党系の学生たちは、バリケード闘争が自治会や大衆的な自治を破壊していくから、これを守るという理念にあったのに対して、宮本顕治は自分の手でバリケードを始末し、そのことで選挙の支持を得ようとした。これは大衆的な運動の立場にあろうとしたことと党派的な立場にあろうとしたことの違いだが、その疑念はこの中でもあったという。

宮崎学ここで感じた矛盾の意識は離党につながっていく。この現象はかつて1960年の安保闘争時に全学連主流派であった僕らに対立した共産党系の面々(全自連とか全学連反主流派とよばれた)の多くが離党していったのに似ている。日本共産党はそこに多くの人が参入しながら、やがては離反し、それは死屍累々としてある。今や読売新聞の総師の位置にある渡辺垣雄もそうであった。宮崎学も共産党から、共産党的なものから離れていく。1960年以降に立ちあわわれた反権力運動は共産党的なものを壊そうとした。天皇制的なものも含めてである。共産党的なものと、天皇制的なものは近代の日本の国家的な形であるが、全共闘運動はそれを壊したが、革マル派と赤軍派という形でそれの根強さを示しもした。

革マル派と赤軍派は共産党的なものを壊そうとしながら、共産党的なものを体現し実現してしまった、という存在である。それはそのイデオロギ―というよりは、現実意識から乖離した形の理路や理念で人々を支配しようとする動きである。世界を変える(変革する)ときに必要な理路や理念が現実意識からから乖離したものであり、現実意識からでてくるものに敵対する存在である、そのあらわれだった。

共産党的なものは唯物論的思考にあるとみなされてきたが、実は観念論的思考にある存在である。彼らは彼らが批判していた観念論者であった。唯物論という衣装をきた観念論者だった。この観念論者でることを宮崎学は嘘とか欺瞞という言葉で表現した。いうなら現実的でないものを現実的というような嘘であり、策術なのだ。僕らはこれを壊そうとし、ある意味で壊したが、そこから世界を変える理路や理論を創り出すことは困難だった。なぜだろうか。理路や理念は現実を抽象したものであり、観念であるが、現実から出てきた観念(現実から橋渡しされたもの)であること、それに裏打ちされてあることが大事だが、それを構築することは、歴史的にある観念(理路や理念)を変えるということが必要であり、それには時間が必要だったからだ。体制を変える現実的運動と理路や理論の創出をやるのは困難だった。それに共産党的なものにはマルクス主義という当時の世界思想の背景もあったからだ。

これを壊すには理路の面と、現実意識の面があり、新左翼的なものは、運動の面である程度のものを生み出しながら理路や理念の面では挫折を余儀なくされた、と言える。宮崎学はあの時代において僕とは敵対的存在であった党に所属する存在だったが、現実の運動面では共有するものをもっていたし、党派(共産党的なもの)に矛盾を意識していたという面で共通していた。党派への矛盾の意識を僕も少し違う形で持っていたからだ。

僕らは出会い、親しく付き合うことになった。肌があったとでもいうべきだろうか、いろいろと付き合えた。ふりかえれば、彼に誘われて電脳突破党に加わり、個人情報保護法案反対運動にも参加した。僕はかつて叛旗派(共産同叛旗派)をやめてから、集団的な運動には参加しないことにしていた。これを解禁したのであるが、これは宮崎との不思議な縁というか、彼には人を誘いこむ魅力があったからだ。それはなんであったのだろうか。宮崎学は現実の意識と現実として流通する言葉の二重性というか、その矛盾的な存在に敏感だった。だから、現実の矛盾というか、それを見るときも、いつも二重性に気が付いていた。例えば、差別というとき、そこには差別を表象する言葉と現実の意識としてある差別意識をもっている。ここには、二重性がある、人が差別を矛盾であり、悪と断じて差別を解消せんとするとき、この二重の差別意識をふまえるしかない。だが、人々は応応にしてこのことに一面的にしか対応できない。ある程度の抽象を経て流通す言葉としての差別と現実の差別意識は位相差を持つ二重性としてあるのだが、そこを宮崎は自然にふまえていたように思う。普通は言葉(理念)によって世界を理解し、そでで関わろうとして挫折や痛い体験からそこに人はきがつくのであるが、宮崎は素質のようにそれを認識しえたと思う。この二重性に気が付き、その矛盾に意識が届くとき、体制的なもの、権力的なものに対する自由な立場が得られる。そしてこの自由がこの矛盾の解決の導きの糸をなすものと言える。

宗教的な接近というか、関りから解放されていることなのだ。こういう自由さということが社会変革の根源的な力になるのである。そして、これは彼の行動や言葉への信頼感になるものだった。この信頼感が大きかったのである、と思う。党派的なものから解放されているという信頼だったともいえる。

吉本隆明が「自分の頭で考えろ」と言っていたことは、このことなのだが、宮崎はそこのところは資質のように体現していたと言える、宮崎は左翼というか、共産党体験から左翼の観念性にうんざりしたところがあったのだと思う。だからかれは現場主義を語り、部落問題などすぐれたレポートを書いている。その中で、僕が注目したのは部落を権力の問題だというところを指摘しているところだった。「だから、権力構造の問題として、天皇や天皇制に対置して、非差別部落を持ってくるのは間違いだろうと僕は思っています。むしろ、権力構造じゃなくて民衆の中にある差別の問題、実はその差別が一番、非差別者にとっては残酷な問題です。」

大本柏分苑

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