1次・2次・3次にわたる大本弾圧事件の繋がりについて

狂気の悪霊の執拗さは、国家権力による近代史上稀な宗教弾圧として30余名にのぼる殉教者そして類似の偏見・差別なり、そして何より日本が針路を逸脱し、その影響は現代にも強く残る。

<大本第1次事件> 1921年2月12日

神明造りの神殿や、開祖の墓が明治天皇陵に類似しているとした不敬罪。

実際は聖師が有栖川熾仁親王の落胤であるが故に、天皇側が仕掛けた大本潰しの一撃である。聖師はひるむことなく、本宮山神殿の破壊音を真近で聞きながら、経典である<霊界物語>の口述を開始する。

機関誌<神霊界>の発刊で<大正維新>をスローガンとして、鎮魂帰神と厳しい予言・警告で強力な宣伝を展開し、亀岡城跡を購入、日刊大正日日新聞の経営を始めた。全国的な新興教団<皇道大本>を邪教というレッテル張りで、政府は第1次大戦後の戦後恐慌を乗り切ろうとした。

<大本第2次事件> 1935年12月8日

1931年の満州事変後、侵略主義と国際協調路線が対立する中、1934年国民精神運動として昭和神聖会を設立、大本が天皇制の枠を超え、神の声を伝えようとした時、国家権力との激突は避けられぬ宿命であった。大正天皇には子種がなく、昭和天皇は西園寺八郎の子であるという。大本弾圧の発端は西園寺公望の秘書原田日記に記され、公望が北朝の王仁三郎を討つ必要があったという。

(必然説)

戦前の明治憲法下、権力が国家体制の支柱として神道国教化政策を押し進め、民衆の宗教の立場を貫く大本の存在を忌み、ファシズムがマスコミを悪用して天皇の名において、さらなる検挙者3,000人の弾圧をしてきた。

この必然説は中道進歩の大本信徒連合会(出口直美教主)がとる立場で、聖師(出口王仁三郎)が主神として、天のみろく様(スサノオの尊)のご神格を備えるという信仰です。

(誤解説)

忠実に国体信仰に徹し、国防展など非常時の認識普及や国体擁護運動を展開したが、当局が宗教に対する理解に欠け、大本の真意を汲み取れず、誤解されて法の裁きを受けたとの主張。この誤解説は保守反動の現教団(広瀬紅偽教主)の立場で、歴代道統にない教主を擁立する民族神(生き神)信仰。5大神人説(開祖、聖師、2代、3代、日出麿)などは、聖師のみろく下生の御経綸を否定する。天の弥勒のご神格を認めずして、大本の御教えは成り立たない。

第2次事件での首謀者として3代教主の夫・日出磨は激しい拷問で、終生正常には戻らなかった。3代教主は事件時、33歳で、特高の常套手段である、男は牢屋、女はレイプという惨事があり、当局による大本を地上から抹殺する目的はほぼ完了している。

但し、第2次事件の命令者は西園寺公望と昭和天皇である事は間違いない。

<大本第3次事件> 1982年5月26日

1948年尾崎楯彦ちゃんが5歳で病死、3代教主と日向(戸籍名:尾崎)の子である。養育された坪内氏の日記に詳しく、木庭氏の<新月の光>にも1945年<聖師様の餞別>として書き残されている。京太郎が招聘した特高出身の宇佐美総長がここに目を付け、大本道統の息の根を止めるべく、3代教主を脅迫し教嗣の変更を無理やり飲ませたのである。

4代出口直美教主は開祖様の生まれ替わりであり、神定である以上、3代教主といえども、変更する事は出来ない。直美教主は2011年節分に、代々長女が教主を継ぐと宣言されます。その1ケ月後、東日本大震災が発生しました。2012年11月公館問題につき最高裁上告棄却により、信徒連合会の立場が認められた。


1982年5月26日、私生児の弱みを握った宇佐美総長が3代教主に道統の変更を執拗に迫る証拠写真

世界の出来事を見て改心して下されよとは、開祖のお筆先に出て来ます。歴史的認識の重要性、過去に目を閉じる者は、結局現在にも盲目である。日本は仏教国で、時の観念が不十分で、現世超越してしまう。

ハルマゲドンとは、ヨハネ黙示録に出て来る言葉で、善と悪との最後の決戦が行われる場所で、イスラエルのメギドの丘という要塞都市の戦いが暗示されている。戦争を終わらせる、最後の戦いとも言われる。大本でも人民三分になるとの教えもあり、そうならないように大本の存在があります。

大本柏分苑

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