『渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』

(1)

渡辺恒雄は読売新聞の統領である。巨人軍のオーナーでもある。彼には他方で政治的な工作者(フィクサー)としての顔がある。彼は何年か前に死去の報が流されネットなどをにぎわせたことがあり、何かと取りざたされる人物でもある。また、『渡辺恒雄回顧録』(中公文庫)もある。この本は渡辺の集大成というべき、彼の政治との関わりを述べたものであるが、これは戦後政治をその内部から析出したものである。特に支配共同体の内部、権力中枢の動きはなかなかわからないというべきなのだが、その戦後史を浮き彫りにしたものである。専守防衛論というべき戦後の安全保障論の転換がはかられ、戦後政治の転換が進む現在を考察しようとするときの格好の素材である。

 渡辺は世間的には巨人軍のオーナーとしてよく知られ、巨人ファンからももう口をだすなと煙たがられる存在だが、彼は今の政治をどう見ているか、興味深い。それはこの本の終章である「喪失されてゆく”共通基盤”」で語られている。一言で言えば戦争体験とその反省が戦後政治を形成したが、今やそれ(戦後政治の共通基盤)が失われて行く時代にあるという認識と危機感である。そしてあらためて戦争体験の継承を提示している。戦争体験とその反省を基盤にした戦後政治はそれに見合う政治の創出に失敗したのだと思っている。これは左右の政治、あるいは体制、反体制の政治について言えることだと思っている。彼は2005年の段階で「検証 戦争責任」の連載を読売新聞でやっているが、戦争体験の追体験の重要性を語り、それをやってきたが、その思いは今も変わらないと言える。立花隆が最後の思想的なこだわりとして語った「戦争体験」のこと、あるいは本書でも語られている田中角栄の「戦争経験者が権力の中枢にいる限りは大丈夫である。権力の中枢に経験者がいなくなった時が危ない」という言葉と共通していると言える。多くの戦中派の人々が亡くなる前に口にすることは戦争体験の継承であり、その重要性である。その薄れゆく危機感であるが、戦中派に属する渡辺は同じ考えに立っているといえる。

 ロシアのウクライナ侵略に対してプーチンを擁護し、また、喧嘩両成敗的なロシアも悪ければ、ウクライナも悪いという曖昧な左派の連中の認識を目のあたりにして、戦後の左派は「戦争体験と反省」という戦後政治の共通の基盤を生かすことに失敗してきたことを見ている、戦後左派の政治は憲法(戦争体験と反省)に生かされながら、そのことを自覚しえない存在だったということをあらためて思ってもいる。戦争体験と反省こそが戦後政治の共通基盤であったが、それは大きな意味で生かすことに失敗したという危機感が渡辺の意識(多分に死を意識した現在の意識)に濃厚にある。それがかつての『渡辺恒雄回顧録』に続く、告白をしたのだ、と思う。鶴見俊輔の『回想と期待』は戦後政治についてのすぐれた回想録であるが、これを思い浮かべながら僕はこの本を読んだ。

(2)

 渡辺はよく知られているように戦争中には学徒動員で戦争に刈りだされ、従軍の経験のある戦中派である。生まれは1926年である。三島由紀夫は1925年生まれであり、吉本隆明は1924年生まれである。俗にいう戦中派の典型である。ただ、彼は戦前の学生時代にかなり反軍的な言動と意識を持っていたらしい。それは左翼思想としてではなく、大正教養主義の系譜にあるリベラルな思想として持っていたと言えそうだ。彼は戦争で死ぬことを覚悟し。その覚悟を天皇のために死ねという思想(悠久の大義に死ぬという政府や国家権力者が用意した思想)に対抗していた。それはカントの『実践的理性批判』にある内なる道徳律という価値観による対抗であり、そのために軍隊にもこの本を秘かに持参したという。彼は独善的で横暴な軍隊の世界を体験する。当時の軍隊は知識人、あるいはその予備的存在には相当きつくあったらしいことはよく知られる。ただ、当時の軍隊は世界で最も民主的な軍隊と称していたが、リンチまがいの所業が横行する非民主的な軍隊だった。それを彼は身を持って知った。

彼はその中で「天皇専制体制を打倒しなければならない」と考えていたらしい。多くの戦中派の手記にはこの戦争は負けるという認識は結構見られるが、「天皇専制を倒す」という認識を持っていた部分は少ない。例えば、八路軍に入り、反戦兵士になっても天皇制の批判はしない兵士が相当いたといわれる。

彼は戦争体験について次のようにいう。「それはね、軍の横暴、独裁政治の愚かさ、身に染みて分かったわけで」「あれだけ人を殺して、何百万人を殺して、日本中を廃墟にした連中の責任を問わなくていい政治ができるわけがない」(敗戦、原点となった戦争体験)。独裁政治の愚かさということが、敗戦に導く戦争の中でわかるということは相当なことだったと思う。これは軍の政治(軍政)ということを、身を持って知ったことである。軍隊の横暴や戦争の悲惨さと同時に軍の政治(独裁制政治)の愚かさ知るということは簡単なことのようでなかなか難しかったのである。

彼は敗戦後に復員し大学に戻るが、そこで共産党に入り、東大共産党で活動する。多くの学生が共産党に加わり、政治活動(学生運動)に加わるという走りのようなことを始める。1970年代前半頃まで日本の学生は学生運動に参加し、共産党も含めて左派の活動に多く参加した。これは戦後の日本の政治的風景でもあった。

彼の共産党への参加は次のような動機だったという。

「中略。あの地獄のような軍隊に行った。それというのも、ともかく天皇制、全体主義が悪いからだ。だから、戦争が終わって生き残ったら、天皇制を倒さないといかんと真面目に考えていた。天皇制をつぶして。共和国にしようと思った。それで当時、除隊になって東大に戻ったらいろんな壁にビラが貼ってある。全部、天皇制護持だ。天皇制打倒と書いたビラは共産党だけだったね。それで共産党に入ろうと思って敗戦の年の暮れかな、共産党本部のある代々木に行って、共産党に入ったわけですよね」(共産党活動、学んだ権力掌握術)。

彼は天皇制について明確な見解を持っていた、日本共産党に参加する。日本は天皇制を守ること(国体の護持)を条件に降伏したわけだから、戦後の支配層は天皇制護持だった。彼らの動きは戦後の憲法改正案に天皇制をそのまま残し、戦前の天皇機関説まで解釈を戻せば何とかなると考えていたらしいが、これはアメリカ占領軍に蹴られてしまう。日本の支配層のみならず、野党の天皇制については曖昧だったけれど共産党は三二テーゼを復活させ、天皇制打倒を明確にしていた。戦後の左派に共産党が大きな影響力を持った秘密の一つはこの天皇制に対する態度にあった。この三二テーゼの天皇観は左派に現在も含めて大きな影響を与えている。これはある意味で日本共産党の政治革命観(権力観)の力と欠陥をしめすものであったが、現在の左派はこの欠陥を克服しえてはいないものと言える。

当時の共産党は戦争への対応、ソ連(中国革命を含む)等の動向もあり、人気に勢いがあった、と言われる。その渡辺は共産党に入り活動するが、違和を感じて反党活動に走り、東大「新人会」を作り独自の活動をなす。彼は軍の規律のような党の規律を強調する共産党に軍の独裁政治の匂いを感じたというが、党に自己意思(自由や主体の意識)の不在という欠陥を感じたという。渡辺の共産党への違和と活動は1960年代の新左翼活動を彷彿とさせるとこともあるが、この時代には反共産党の左翼活動は孤立無援な状態であるほかなかったから、孤立し、つぶされる。彼はこの活動の中で権力掌握を学んだというが、共産党の独裁的政治観と軍(天皇制)の独裁的政治観の類似性を感じたというところに注視がいく。そこを深められていたらと思われる。これは勝手な願望であるにしても。彼が主体性ということから共産党の存在に批判的になって言ったことはその後の主体性論争も含めて考えれば、先端的なことだった、と思う。渡辺は哲学的な視点や文学的な視点から左翼の運動に参入する人間の多かった知識人の中では政治的に参入した存在だけに、そこは興味を喚起させる。

渡辺が共産党の天皇観に魅かれ、共産党に加わり、そこから離れるということは日本共産党が左派の中で力を持った美点であると同時に欠陥でもあった。天皇制の打倒を示し得た点は日本の国家権力の性格を見抜いたところであるが、この権力をどのように変えるか、天皇制打倒後の権力を形態も含めて提起できなかった欠陥を暗示しているからだ。社会主義権力を提示したのだが、これは何も提示しないに等しいものだったからである。「プロレタリア独裁による統治」という政治革命論であるが、これは専制権力になったか、何も提示しない代物だった。

(3)

渡辺は共産党から除名されて転身を与儀なくされ、読売新聞に入社し、新聞記者として活動する。ここから彼は政治的工作者(フィクサー)のような活動をする。このところは一種の読み物というべき面白さがあるが、この中で最初に目を引くのは彼が、奥多摩で活動していた日本共産党の山村工作隊の取材をやるところである。小河内ダム建設に反対するこの山村工作隊が活動していた。25歳ころというから入社して間もなくのことだろうが、これに目を引いたのは僕らの世代では連合赤軍事件のことがあるからだ。彼は「殺してしまえ、という声の

聞こえる中で取材に成功する」。これに対したのが後に作家になる高史朗だが、

彼は「殺してしまえ」という声を制して取材を認める。高はこの時に心的な葛藤があったことを語っているが、殺すということだって起こりかねなかった、と思う。こういう取材を敢行した渡辺には軍隊体験や共産党経験があり、工作隊の報にも軍隊経験がすくなからずあったと思われる、連合赤軍にこうした取材があったらどう対応したか、想像をした。

 この本の主題というべき彼の記者時代の活動だが、これは彼が永田町に足を踏み入れ段階であり、日本の権力の中枢でその動きを見て自らも政治の片棒をかずくような行動をする日々なのだが、戦後の占領政策から独立を経て、戦後の日本政治がつくられていく過程だった。この動きは敗戦期になって戦後の日本の首相になった吉田茂の時代からのことだが、保守合同(いわゆる55年体制)を経ての自民党政権の続く時代である。岸信介の主導する安保改定を挟んでの保守本領と呼ばれる部分が政権を担当した時代である。その中で、注目すべきは吉田の時代が戦争責任者の公職追放もあって、占領政策のよる戦後改革にそった政治が展開されていたというところだ。戦前の国体を大きな枠組みとした政治が、国体の護持を条件に降伏した日本だが、変えられて行く過程である。

 戦後の政治が戦前と大きく変わったとすれば天皇が統治主体から、象徴に変わったことであるが、実質的には軍が政治の中から遠ざけられたということである。これは渡辺の言でいえば軍の独裁政治が排された、民主主義政治が展開されて行った、ということになる。この秘密は戦争体験と戦争の反省が軍の独裁政治を排していく方向であり、吉田時代はその象徴的展開と言えたのである。戦後憲法がアメリカ占領軍によって押し付けられたものと言われながら、憲法政治が定着していくプロセスでもあった、と言えよう。

この日本政治に独立を気に戦争責任者の政治復帰がなされ、戦前組の日本の政治への復活がはじまる。彼らは戦後の占領政策の精算を掲げいわゆる歴史の逆コースという政治を取り始める。その象徴は岸信介だったいわれる。戦争体験と戦争の反省が日本の政治を戦前の政治から戦後の政治に変えたとすれば、「天皇の統治」から「国民主権による統治」に変えたことになるし、天皇を統治主体から象徴に変えての政治だった。これが、生真面目に進められようとしたのが吉田の時代であるとすれば、戦前の政治が形を変えて復権を主張するようになってきたのが、岸の時代であり、岸はその影を落としたと言えるのだろう。戦争とそれが必然化させる軍の政治を排しようとした戦後の政治はその道を歩んだのか。そういう力が戦後の政治に大きく働いたことは事実であるが、軍の政治の対極にある立憲政治(民主的政治)は成立したのか。それは彼が永田町で目撃した大きな風呂敷包みが政治的に機能する以上のものではなかった、ということか。軍の政治よりはこうした政治の方がましだということはあるだろうが、それは渡辺がみたリアルな政治だった。かれはリアリストとして政治に対応してきたというが、彼には政治についての哲学もあった、と思う。その行方について彼はどう考えているのだろうか。

 軍の独裁(天皇独裁でもある)を打倒しようとして考えて、共産党の天皇制打倒を選んだ悲劇は彼の戦後政治の関りについて回ったのではないのか。天皇制とは違う政治、戦争や軍を排する政治はまだ世界のどこにもないが、それを考える、思想として生み出す道は戦後の政治運動の中にあったし、現在もある。例え可能性だとしても。そんな思いがちらついたが、戦後の政治を考える格好の本だと思う。

大本柏分苑

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