熾仁《たるひと》親王と和宮の最期について

王仁三郎の実父・有栖川宮熾仁《たるひと》親王と和宮の最期について世に知られざる新事実を語る

出口禮子が著した「天皇の黒幕と天岩戸の秘密」『ムー』二〇〇四年十二月一日号を再掲載し、明治維新の真相に迫ります。そして『霊界物語』の記載を織り交ぜながら、天岩戸の秘密と三人の皇女和宮、・熾仁・世祢・孝明天皇・岩倉具視 そして熾仁親王直系男子王仁三郎が語る幕末維新の真実に迫りたいと思います。

『神の国誌』掲載「有栖川宮熾仁親王落胤説を検証する」を部分引用している箇所が多いですが。出口和明名で「おほもと誌」「随想大地の母」として執筆していたもの、ところが数十年が経過し和明や禮子の見解も変化し、また明治天皇問題、熾仁親王落胤の新たな証拠発見などに伴い、「有栖川宮熾仁親王落胤説を検証する」との名前でいわば和明がアップデートしていったのです。和明の遺志を継いで独自の視点で「落胤説」を検証するを「二十二」まで書き...進めます。元々大地の母自体、和明と禮子の共著のような側面がありましたからスムーズに原稿が進んだのです。ただ原稿には時に私という言葉が出てきます。執筆主体が和明から禮子にかわっていますので読者からみてどうしても読みづらいところが出てくるわけです。それがこのようなリレー掲載の難しいところですね。

切紙神示の解明や熾仁親王落胤説など執筆の仕事をやりとげないといけないなと考えてきました。そして2009年頃から「神の国誌」に連載を続けてきたのですが、2010年に王仁三郎の晩年の住居、私の生地でもありますが「熊野館大火災」を経て、真実の歴史が完全に消えてしまうことを危惧し、2016年に『誰も知らなかった日本史』を出版したわけです。 さて2004年に禮子は雑誌ムーより「天皇の黒幕と天岩戸の秘密」の記事を掲載したわけで、さらに単行本としても書き足して出版する計画があったようですが、禮子も2018年現在85歳、すでに執筆できる状態ではなく、母と相談しながらこの本を書き進めたわけです。和明の著作権は母兄弟等とともに私も継承しており、禮子の著作権利用の許可も得ています。どうしてもそのような事情で和明禮子の引用部分が多いことをご承知くださいより正確に至実を伝えるためにはありのままの引用がふさわしい場合もあるのです。

この著はもちろんノンフィクションの立場で書かれていますが、『霊界物語゜の人物あてはめなどは、その真実性は神のみぞ知るです。私はその舞台の現場を見たわけではないので、その部分はエンターメントとしてとっていただいて結構です。岩倉具視や熾仁親王、和宮の会話などは私は真実よりより登場人物の本質を表現しているかもと密かに思っています。王仁三郎は現在過去未来すべてを透徹しており、『霊界物語』はコマーシャリズムと縁がなく、霊界物語は大弾圧の進行中に書かれたものなので。王仁三郎は暗殺などは避ける動機以外に虚飾を語る理由は一切ないのです。物語の形で歴史の真相をリアルに表しているのですね。

霊界物語の「物語」の意味は物怪《もののけ》が語るという意味ですね。物とは〚霊・神」なのでしょう。物語とは『物』を語るのではなく、神が(コト)を語るのです。ちょうどヒストリー・HISTORYとはHIS STORY「神が語る」、「神の物語」と同じ。

●出口王仁三郎の恋人と冠句の師匠・清之助

<引用開始>

王仁三郎曰く。秘密の「秘」は、「必ず示す」と書く。命がけで隠し通した歴史の秘密も時めぐりくれば真実の姿をさらさずにおかないのだろうか。私(禮子)の夫、出口和明は生涯をかけて祖父・出口王仁三郎を顕《あらわ》すべく生きた人であった。彼の著、大河小説『大地の母』全一二巻(昭和四六年~四八年 毎日新聞刊)は、大本(教)の創成期を揮身《こんしん》の力を込めて描いたもので、私もその取材に深く携《たずさ》わった。老境にさしかかった今、当時では書ききれなかった王仁三郎の実父・有栖川宮熾仁《たるひと》親王と和宮の最期について世に知られざる新事実を語りたい。それは二年前(十六年前)に逝《い》った和明の遺志でもある。

もう四〇(五四)年も昔のことであるが、いま思えば、その後、私たちの歩んだ道は見えない一本の糸で、教団の枠を超えた近代日本の歴史の深い闇へと導かれていたような気がせずにはおれない。

『大地の母』は小説とはいっても、フィクションではなく、あくまでも細かい事実の検証と積み重ねによる歴史小説である。昭和三五年、大本教団では上田正昭、村上重良、林屋辰三郎など錚錚《そうそう》たる学者を編集参与に迎えて教団史編纂の大事業がスタートし、昭和三七年には上下巻三千ページにおよぶ『大本七十年史』が完成していた。しかし、公的な教団史では無視されがちな王仁三郎や初期の大本関係者たちの人間臭いエピソードのからみ合いによってこそ、はじめて明かされる真実というものがあるのではという思いで、取材に奔走していた。

その過程で上田喜三郎〈王仁三郎の本名〉の青春を彩《いろど》る女性たちについて、調査することになった。手がかりは、王仁三郎の残した回顧歌集『故山の夢』『霧の海』である。王仁三郎は相手の立場を慮《おもんぱか》ってか、実名はいっさい記していないが、幸い、王仁三郎が生まれ育った亀岡の山間の集落、穴太の里には、若いころの王仁三郎を知る古老たちが何人もおり、「喜三やん」にまつわる思い出を楽しげに語ってくれた。

●喜三郎の恋人、八木弁の父 清之助は動乱の幕末裏面史 和宮の真実の死に深くかかわっていた!

歌集から摘出した王仁三郎の「七人の恋人」について次々と特定していくことができたが、そのうちのひとりに八木弁という女性がいた。昭和四四年の春、私たちは、亀岡の千代川村にある八木弁の生家を捜し当てたが、ここで二重の不思議な暗合に遭遇することになる。私たちを暖かく迎えてくれた当主の八木次男《つぐお》氏は、弁の父・八木清之助が明治二九年から書き留めた膨大な和綴《わと》じの日記を持ってこられたが、その表紙には「度変窟烏峰《どへんくつうほう》」の名が墨書《ぼくしょ》されてあったのだ。若き日の王仁三郎が冠句に熱中し、偕行社《かいこうしゃ》というサークルまでつくっていたことはよく知られている。穴太の小幡神社には、その創立一周年に王仁三郎の奉納した額が残っている。冠句は江戸中期から流行した俳句と川柳を混ぜたような大衆文芸である。季語はなく、選者が五七五の最初の五の題を指定して、それに応じて参加者が七、五と続け、その優劣を競うのである。

回顧歌集や奉納された額から判断すると、王仁三郎の冠句の師匠は「度変窟烏峰《どへんくつうほう》」という人物であるが、いったいどこのだれなのか、皆目わからないままであった。ところが喜三郎の恋人、八木弁は「度変窟烏峰」の娘だったのだ。それだけでも驚きであったが、この烏峰こと八木清之助の経歴には尋常ならざるものがあった。清之助は動乱の幕末裏面史に深くかかわっていたのだ。

大本柏分苑

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