身に添う神々さま ~木花姫に学ぶ~ 〔令和5・2・23 藤井盛〕<PARTⅡ 最終回>
○身に添う神々さま
霊界物語には、人々の身に添い、身魂を鍛え御神業をさせたり、あるいは命の危険から救う神々が木花姫以外にも登場する。日の出神や琴平別神、獅子に乗った時置師の神などである。竜雲を説き諭して改心させる北光神もその一人かもしれない。
〔日の出神〕
日の出神が全身を包み、直接、宣伝使の身体に御神力を与える。清彦は火の玉の光を浴び、日の出神の姿と変じている。
「此方こなたに向つて飛び来る火の玉あり、清彦の前に墜落するよと見るまに、清彦は闇中に光を現はして、立派なる日の出神と少しも違はぬ容貌と化したり」 〔八巻六章「火の玉」〕
〔琴平別神〕
王女チンリウ姫は、乳母アララギらの裏切りにより満潮で没する島に流される。膝まで水につかる絶対絶命の中で大亀の琴平別神に救われる。信仰心のなかったチンリウ姫は、大亀の背に乗り故郷イドムの国に進むうち、アララギらへの感謝や大神への信仰心が芽生える。
「この亀は神の使つかひかわが生命いのち何怜うまらに委曲つばらに救いたるはや」 〔八十一巻一六章「亀神の救ひ」〕
〔時置師ときおかしの神かみ〕
宣伝使が危急存亡に陥った時、必ず獅子に乗った時置師神が現れる。木花姫の変現なのかもしれない。
「敵は目に余る大軍、あはや三人の命は風前の灯火ともしびと云ふ危機一髪の際俄にはかに聞ゆる獅子の唸り声山岳も崩るる許りであつた。此声に敵は顫ふるひ戦をののき思はず知らず大地に耳を押つけて踞しやがんで了しまつた。見れば巨大なる獅子に時置師神が跨またがつて居る。玉国別はこれを見て思はず知らず両手を合せ、『木花咲耶姫命様、有り難う厶ございます』と感謝の涙に咽ぶ」
〔四十三巻一二章「双遇」〕
〔北光きたてるの神かみ(天あめの目ま一つの神)〕
セイロン島の王妃ケーリス姫を誑たぶらかして、王の地位を奪わんとした妖僧竜雲が、北光神の御諭しで改心する。北光神は竜雲の身に添い、身魂を救う。宣伝使の活動は、救い主の神素盞嗚尊へとつながる。
「悪逆無道の振舞を致しました竜雲で厶います。只今歌で申し上げました通り三五教の宣伝使天の目一つの神の御訓誡やサガレン王様の御仁慈に依つて、曇りきつたる身魂を救はれ」
〔四十一巻九章「蓮の川辺」〕
〇八雲琴演奏者に添われる出口聖師
昨年十一月、愛善荘で興味深い話を聞いた。ある八雲琴の先生が整体に通っていると、「いつも先生といっしょに来られる方がいる」と整体師が言ったとのこと。先生は一人だというのであるが。
整体師は大本の関係者ではなかった。ある時、整体師が出口聖師の写真を見て、「この人がいっしょに来ていた」と言ったというのである。世間には天眼通の開けた方がいる。
出口聖師は、八雲琴を終始奨励され、田中緒琴初代家元を綾部の月光閣に住まわせ、その門に「神伝八雲琴指南」の看板を掛けさせておられる【註3】。整体師の話は、八雲琴に携わる者に、出口聖師の厚い御守護があるという心強い証となる。
【註3】『おほもと』誌昭和三十六年六月号「八雲琴と共に四十余年 田中緒琴」
〇山越のみろく
整体師の話を聞いた日、帰りの京都駅に、永観堂の国宝「山越阿弥陀図」の展示の垂れ幕が掛かっていた。太陽か月を背に負い、山間から阿弥陀如来が上半身を現し、左手を上げているものである。臨終の際に阿弥陀如来が迎えに来るという、来迎図である。
この「山越阿弥陀図」と同じ構図が、出口聖師の「山越みろく」である。その写真を私は持っている。出口聖師は瑞の御霊であるから、背に負われているのは月であろう。上半身を現され、左手を上げておられる。頭の髪型もぼつぼつとした螺髪らほつで、明らかに山越阿弥陀図を意識されたものである。
パロディのようだが、決してけっしてそうではない。「阿弥陀は自分だ」という出口聖師のお示しに他ならない。みろく様の下生たる出口聖師が、「おまえたちの帰幽の際には、必ずみろくのワシが迎えに来てやる、安心せい」という力強い言霊が聞こえる。現界のみならず、死後、霊界でも迷わないようにと、人類愛善新聞にいつも御自身の写真を載せられていたことに通じる。
なお、我が家には出口聖師自筆の御神体がある。左右から迫る山の様子が「山越みろく」に似ている。御神体の中央のお山と出口聖師が重なってしまう。
○主神とその顕現たる厳瑞二霊の来迎
山越阿弥陀図に戻る。阿弥陀の左右に控えている(脇きょう侍じ)のは、観音菩薩と勢至菩薩である。浄土真宗では、それぞれ慈悲と智慧を司る菩薩だと説明している【註4】。大本的に言えば、愛善と信真を司る厳瑞二霊の御神格ということになる。
臨終に際して、阿弥陀如来とこれら二菩薩が来迎するということになるが、霊界物語(五十五巻「序文」)でも同様に、主神の大国常立大神とその顕現たる日の大神と月の大神【注5】の来迎が示してある。
「大国常立大神日の大神月の大神は神を愛し神を理解し信真の徳に充たされたる者を天界に救ふべく最と高ヽき神人を率ゐて霊肉脱離の際に来迎し直ちに宝座の前に導きて」
〔五十五巻「序文」〕
五十五巻「序文」の構成自体、仏説無量寿経をベースにしたものと思われるが、この部分についても同様である。
「菩提心を発おこして…専ら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修して…衆生、寿いのちの終わる時に臨んで、無量寿仏、もろもろの大衆とともに、その人の前に現われ…七宝の華はなの中に」
〔仏説無量寿経下〕
【註4】板東性純著『浄土三部経の真実』慈悲のはたらきを具現化し、人格化したのが観音菩薩。智慧のはたらきを具現化し、人格化したのが勢至菩薩。
【注5】厳の御霊日の大神、瑞の御魂月の大神は、主の神即ち大国常立大神の神霊の御顕現にして、高天原の天国にては日の大神と顕はれ給ひ、高天原の霊国にては月の大神と顕はれ給ふ。〔六十三巻四章「山上訓」〕
〇家族の身に添う神さま
下の娘が一歳ころ、二階の急な階段からごろごろと落ちた。下はコンクリートである。コンクリートに落ちる瞬間、父親がちょうど帰って来て娘を受け止め、大事にいたらなかったことがある。
また、私も大酒を飲んで、危うく転けそうになった時、道路のポールを掴み、頭を打たずに済んだことがある。頭を打って寝たきりになる人が、年間五千人いるというのを、テレビで見たことがある。
記憶がおぼろで点々とする中で、今でも鮮明に覚えているのは、ポールを掴もうとした時に、上から加わったもの凄い力である。左手の人差し指から薬指にかけての三本の指の手のひらの第二関節のところの皮膚が裂けるほどである。特に縫うほどになった中指の骨にはひびが入った。
ひびが入るほど強く、自分の手でものを叩くことは普通ない。あの力は自分の力ではなかったと今でも思っている。娘の時も、またこの時も神様が我々の身に添い、危難を救っていただいたと信じている。
なお、妻は六十歳の若さで亡くなった【注6】が、平成二十七年から亡くなる二十九年までの三年間、夫婦で実に十五回の県外旅行をした。これらの旅行は、これまで書いて来た教えや信仰に関するいくつかの文章の糧かてともなっているが、夫婦としての最後の三年間への、我々の身に添う神さまからの素敵なプレゼントであったと思う。
【注6】『愛善世界』誌平成二十九年十二月号「妻の昇天と『お取次』」ホームページ霊界物語勉強室
https://reikaimonogatari.jp ㊶妻の昇天と「お取次」
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