<みろく下生について>
本来の儒教では孟子(BC300)の天命説により、中国では易姓革命(王朝の交代)が行われた。
空海(774-835)は唐で密教を学び、日本で初めて庶民に教えを広めた。正法が行われない末法思想(他力本願)が終わり、1052年平等院鳳凰堂(阿弥陀仏)が建立、浄土思想は彼岸(あの世)で成仏する。みろく思想はこの世で浄土を作る。聖師は弥勒を至仁至愛とし、弥々革むる力とした。
聖師は1871年(1870年、落胤を隠す為)生まれ、1948年昇天
明治維新は1868年、1945年終戦
聖師は明治維新を王政復古でなく神政復古にすべきだったと語っている。
1945年12月30日付朝日新聞には、民主主義でも神に変りはない、都合のよい神社を偶像化し官幣弊社に唯の人間を祀っている事が間違いの根本だ。世界平和は全世界の軍備撤廃で実現されるとした。明治維新と第二次世界大戦の断絶は日本人の深刻な問題で、容易に埋めることはできない。戦前の天皇が戦後はアメリカに代わり、ジャパン・ハンドラーと言われる。
江戸時代、キリスト教を恐れて鎖国をし、世界との門戸を閉ざして、日本は近代化に失敗した。
そして敗戦を渋る日本に対し、1945年のヤルタ会談では北海道・東北のソ連分割も考慮され、アメリカはやむなく原爆を投下し、日本全体の占領を容易にしたという。北方領土占領で済んだのは幸運かもしれない。
ペリー来航(1853)で、公武合体の犠牲となった和宮(1846-1877)はやむなく降嫁し、婚約者の熾仁親王(1835-1895)と別れ、
落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ
と詠み、涙を流した。実は皇女和宮は明治二年一月二十日頃に岩倉具視らに暗殺され(その後は替え玉)、熾仁親王の東京行拒否、有栖川宮家の侍医であった中村孝道の縁を通しての、伏見での上田よねとの出逢い、出口王仁三郎聖師の誕生につながった。
丹波は京の女官供給源であった。熾仁親王の母・佐伯祐子は京都亀岡佐伯の出身。亀岡穴太出身の出口王仁三郎の母上田よねは和宮にも会っていたという。男の子なら殺されると出生は極秘にされ、よねはご落胤を隠す為、養子を迎える。
一方、伊藤博文(1841~1909)が実権を握る。
1858年 安政の大獄で恩師吉田松陰が斬殺され、伊藤俊輔(17才)が小塚原に遺体を引き取る。遺体を清める異常な体験から、テロリストへ変貌する、1863年に長州ファイブとして英国へ密航留学し化学を学び後、処刑を命じた幕府倒幕(攘夷)そして幕府を支持した孝明天皇の暗殺(1866年)を実行したとされる。上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させ、薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。1867年7月睦人親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。明治天皇の勅裁には伊藤が意のままに作成できた。大正天皇には子種がなく、1899年公爵毛利元徳(もとのり)の八男が、伊藤博文の仲介により、公爵西園寺公望の養子となり西園寺八郎と名乗り、死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた。伊藤博文は権力者として、明治天皇から昭和天皇までデッチ上げたことになる。
1921年、第1次大本事件は宮中某重大事件で、聖師が鶴殿親子より皇室へ、問題なしと伝え、伊藤後の権力者山縣有朋が失脚した恨みから事件を起こした。(霊界物語第52巻、応対盗に詳しい)
1935年、第2次大本事件は全国組織の昭和神聖会発足により、ご落胤である聖師が表舞台に立ち、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると判断した西園寺公望の犯行である。
下生信仰とは、弥勒下生に合わせて現世を変革しなければならないという終末論、救世主待望論的な要素が強い。
聖師がみろく様として、現世的には北朝の天皇として現れ、第1次大本事件までは順調に活動されましたが、第1次事件で126日、第2次事件では6年8ケ月の拘禁された。その結果、みろくの世は、言わば中途半端な状態で今日に至っています。
今後事態が好転するかは、予断を許さない状態と言えます。
0コメント