『祖父が見た日中戦争』(早坂隆)

(1)

 ロシアのウクライナ侵攻から半年に近づこうとしている。戦争は膠着状態が伝えられている。膠着状態とはいえどちらかと言えばロシア側が劣勢状態であるとも伝えられている。ウクライナ側の攻勢とロシア側の敗退が伝えられる情報が多くなってきている。ここには武器の優劣があると推察されるが、兵士たちの士気も大きく作用しているとも憶測される。ロシア軍の士気の低さがしきりに伝えられるが、これはウクライナのプロパガンダというよりは真実だろうと思えるところが多い。ロシア軍の存在構造に原因があると洞察しえるからだ。

圧倒的な戦力差からロシア側の優位を誰もが思っていたが、予想に反する事態となり、それはもはや変えられない流れとなっている。キーウなどを直ちに占領し、傀儡政権を樹立するという目論見は打ち破られただけでなく。ロシア系の住民の保護に名目を変えた東部支配もあやうくなっている。プーチンの誤算と言われるものだが、大きな異変でもない限り、この状態は続くものと思われる。

また、ロシア内部でのプーチン批判の声は現実化が伝えられるが、この動きは

より本格化していくと思われる。加速していくと思われる。様々の方法で批判の声を封じるという強圧方法の限界が見えてきているのだ。ロシア側の撤退(敗北、あるいは停戦かの形は別にして)が最良の解決だが、それに向かっているのかどうかはまだ予測できないが、その条件に向かって進んでいることは確かである。

ロシアのウクライナ侵略は多くの問いを僕らにもたらしたのだが、それは現在も続いている。例えば、中国は今後、どういう方向を取るのか、そして、僕らは中国との関係をどのように考えればいいのか、という問いなどである。そこには中国がロシアのウクライナ侵攻で、ロシアを支持したこと、その政治形態(権力形態)が類似していること、つまりは専制形態であること、また、西欧的な民主主義に対抗的な民主主義(東方の民主主義とか、民主的な国際秩序)を提起することなどがある。さらに、ここには中国の台湾の併合(武力侵攻を伴っても統合)が現実味を増したと思われることもある。中国の動向を分析し、中国との関係を明確にしなければという意識は強まったのである。これは困難なことで誰もそこに踏み込み、議論のための石すら置けていない状況であるにしても。

 

 僕はロシアのウクライナ侵攻から日本のかつての中国大陸侵攻(侵略)を想起した。これは多くの人が想起したことだろうと思うが、ロシアのウクライナ侵攻は歴史的には日本の中国大陸侵攻と類似しているし、そこから、ロシアのウクライナ侵攻が見えてくるものもある。これについては近現代史家の加藤陽子などの発言をみても明らかだと思う。日本の近代史の研究者たちのウクライナ戦争の発言で最もみるべきものがあったのである。

僕らが日本の中国大陸侵攻を対象化(総括)すれば、ロシアの侵略も明瞭になるところがある。僕らにとつてロシアのウクライナ侵攻が見えないところが多いのは、日本の中国大陸侵攻のことを総括しきれていないことが多く残っていることと深く関連している。そう考えて間違いはないのだ。確かに日本と中国の関係はかつてのような関係とは段階を画するような関係に入ってきている。その関係こそが問題なのは明瞭であるが、そこを明確にするためにはかつての中国大陸の侵攻(日中戦争)のことをきちんと対象化しておく必要がある。僕らは日中戦争についての多くの書物を知っているし、映画も見ている。映画で言えば『春婦伝』(『暁の脱走』)や『兵隊やくざ』、『赤い天使』、あるいは『人間の条件』など思いつくままに取り出してもいろいろと思い浮かぶ。映画では僕は『赤い天使』が一番好きなのだが、ただ、日中戦争については触れればふれるほど新しい発見に出会うことがあり、それが何であったかの問いは依然として残る。

(2)

 『祖父の見た日中戦争』は孫にあたる著者が祖父からの聞き書きであり、『祖父の戦争』として2005年に刊行されていたもの全面的改訂版である。僕は以前のものは読んでいない。著者はロシアのウクライナ侵攻をまえにして、「戦争のことを知りたい」という読者の欲求に応えたかったと言うが、この意図は十二分に満たしていると思う。僕はウクライナ戦争でもたらされた多くの問いかけ(自問)がこの本を読みながら分かったとおもえる箇所にあったからだ。

僕も子供のころ祖父からいろいろの話を聞いて育ったし、戦争のことなど聞いておけばよかったと思うことがある。戦争についての話は断片的なものしかない。それもほとんどないといっていい。父親や母親の話も同じである。聞いておきたかったと思っても今となってはもう及ばないことだし、今はむしろ孫に僕の経験してきたことを話しておきたいという思いが強い。でも、まだ、孫は小さいし、孫がいつか読んでくれることを期待してあれこれ書いているのが実際のところだ。こういうことを思えば著者は幸運だったのだし、それに応えた作品になっている。こういう伝承が文化になるといいのだと思う。物語は祖父からの話という形が基本形としてあるのだと思うが、戦争の物語は、戦後は難しかったのだと思う。戦争の経験を証言として残すよりは沈黙のうちに墓場までということが多いのだ。

 

この聞き書きは著者の母方の祖父が昭和18年の秋に出征し中国大陸で経験した戦争と軍隊生活の話である。時代も含めた戦争の話というよりは軍隊生活との話が中心になっている。戦争を構成する軍隊という存在がよく伝わる作品になっている。彼の出征した昭和18年は1943年であり、太平洋戦争の初戦の華々しい戦果も消えて戦争の重苦しさが浸透しはじめていた時期だった。この年にはいわゆる学徒出陣があり、10月21日の神宮球場で行われた壮行会の映像をよくみることがある。日本はこの時期、アメリカとの戦争を展開していたが、中国大陸では満州事変以降のいわゆる15年戦争が継続していた。特に昭和12年、1937年に勃発した日支事変(日中戦争)は泥沼化しつつあった。よく知られているように日本は上海への電撃作戦から南京攻略へと軍事作戦を展開していた、

南京虐殺のなどを起こした軍事行動である。日本は中国大陸を奥に向かって進撃したが、撤退を含めた中国軍の抵抗にてこずり始めていた。

彼はすでに大学は卒業し、妻子もあり、その出征は重いものだった。この中国大陸への出征の模様は冒頭に近いところで書かれているのだが、印象的である。

彼は世田谷の東部十二部隊正門前から渋谷方面に出て品川駅まで行進し、そこから中国にわたっている。家に残してきた妻のことは脳裏に瞬いたが、すぐそれを打ち消すように努めたとあるのは印象的である。多くの兵士たちが後ろ髪をひかれるような思いで出征したのであろうし、それを必死で打ち消すしかなかったのはそれが兵士の宿命だったからだ。僕は上京する汽車の窓から村の家々を眺め、あそこから兵士たちは重いこころを抱えながら出征して行ったのだと想像をしたが、帰還することのおぼつかなさを抱えての出征はどんなに切ないものだったのだろうかと思う。彼が世田谷の部隊正門前から中国の駐屯地に着くまでの間に持つ続けた心的な葛藤と思いが大変、切なく、つらいものだったと想像できるが、それは出征兵士が大なり、小なり持たされたものだった。

この時代には出征兵士は多くの人に見送られてあったし、彼も出征兵士の見送りをしてきたのであるが、彼の場合は夜半に出て秘密裏に中国大陸にわたるものだった。軍隊に入隊するところまでを送る出征見送りと、軍の現地への派遣には当然の違いはあるにしても。

 この本では彼の幼年期や青春期の回想が初めのところに置かれている。祖父は大正9年生まれであるから、その幼年期や青春期を昭和初期に送っている。昭和初期とは戦争に上り詰めて行った時代であり、1931年の満州事変にはじまる15年戦争の時代である。祖父は複数の優良企業を抱え事業展開をする父親のもとで旧制小田原中学―一高―帝大(東大)というエリートコースの学窓生活を送った。彼が一高在学中に日中戦争が勃発とあるから、彼は昭和十年代の初期に高校-大学の生活を送った。そこで彼は映画やダンスなどに興じ、時代の最先端の風俗(文化)を享受したという。きわめて牧歌的な学生生活」だった。その様子がうかがえる。この辺のところを読みながら、思い浮かんだのはことがある。それは社会的動きとの関連であり、関心である。そこでは初期といっても大正末から昭和の初めと昭和10年前後の学生生活には大きな違いがあった。

僕は偶然のことで昭和の初め(大正のおわりから昭和の初め、1930年前後)に旧制の一高の学生だったという人と知り合い、多くの話を聞いたことがある。この人は昭和の初めに旧制一高に入り、1930年(三年)の年に左翼運動に関係して放校になるのだが、この時代には左翼が全盛期であり、学生は社会の動きに激しく抵抗していた。僕は家が近くということもあって、当時のことをよく聞いた。この昭和の初めに全盛期にあった左翼運動は権力の厳しい弾圧と転向などもあって衰退していく。昭和10年前後には左翼運動は社会から姿を消していた。左翼運動は社会の片隅で存在していたのであろうが、人の目にはつかなくなっていた。戦中派の思想家たちが戦争反対の運動などはどこにも見えなかったと言っていた。このことは権力に抵抗する存在が人々の対象になるようには存在していなかった、ということである。対象になるようにということは、それでいろいろのことが生まれてくるということである。

この祖父の学生時代にはそういう対象がなかった故に、進行していく戦争の状況や戦争への動きに対する不安や疑念があっても、それを形にしていく方法がみつからなかったということである。祖父には権力の動きに対する抵抗感がなかったわけではない。「尊敬する河合栄次郎先生の『時局と自由主義』をはじめとして『蟹工船』や『女工哀史』も駄目になった。ロレンスの『息子と恋人』を持っていた学生が、<恋人>という言葉を理由に警察に捕まったと聞き、<この国も臨終間近だな>と学友たちと囁き合った。大正デモクラシーに始まる自由を愛する雰囲気を知っているわたしたち学生は皆、本を隠すことに必死になった」(64ページ)。大正デモクラシーが左翼運動の全盛になった時代と、それが消えた時代の違いである。

運動への弾圧から検閲の嵐の時代に進んでいた国家権力の動きに学生たちは抵抗感を持っていた。ただ、これを運動や思想に発展させる対象(契機)は何処にも見いだせない状態だった。そこが昭和の初めの学生たちと昭和10年代の学生たちの思想環境の違いだった。祖父の学生時代の回想に社会的動きのことが登場しないことはそういう意味だと考えられる。でも彼は招集令状が来て、軍隊への参加を余儀なくされたとき、不安とその拘束感にたいする抵抗感はあり、祖父には市民的感覚は存在した。彼の周りには招集令状を手にして感激し、国家や天皇に尽くすという口にする連中はいたが、彼はそれを信じられない気持ちで眺めていた、と語っているからだ。

(3)

祖父が入隊したのは先に述べたように1943年の秋で、東部十二部隊でこの部隊は、もともとは近衛兵であった。だから、家柄のある家系の長男や学歴の高い者が多く集められていたが、戦況悪化のために近衛兵という身分ははがされ、補充兵として前線に送られることになった。補充兵は戦死者の穴埋めの部隊で南方に送られると噂されたが、派遣されたのは北支だった。そして、この本の中心をなす中国大陸での軍隊や戦闘の証言となっていく。第4章の「凍てつく大陸」から、第8章「ひとの深淵」あたりの叙述である。そこでの中心をなすものは軍隊と戦争の経験的な析出である。軍隊は誰でも知っている事柄のように思える。例えば、日本の軍隊と言えば統制の厳しい組織だというように。いろいろの軍隊の特徴が取り出され、それで分かったように思わされるものだ。「一定の組織で編成されている、軍人の集団」というのが広辞苑の説明である。これは間違いのない説明だが、僕らの軍隊とは何かを問うことへの回答にはなっていないと思う。

彼は袁州(北支)の第三十二師団に属することになった。この部隊は「楓部隊」と呼ばれていた。彼は軍隊組織の一員になり、その一員となって行く。市民社会に属する、その社会組織の一員から軍隊組織の一員になることは不安なものである。それは軍隊が市民的組織の自由さを欠いた、規律の厳しい組織であることがその要因と考えられなくはないが、それは市民社会とは違う環境に入るためだ。市民社会でもこれまでとは違う環境に置かれたりするときに生まれるものだ。僕らが新学年を迎えるときの不安と同じである。人は自然との交流関係の中で生きると言われる。これは自然(対象)を心身化することであり俗にいえば馴染むことである。このように対象との関係が深化し、安定していくのに対して新しい対象のもとに人を置くことは心身の不安をもたらす。馴染むようになっていた心身の対応ができないためだ。新しい環境に心身が対応できず、環境に適合

しえないし、それは不安となる。対象に馴染むことで、対象との関係を繰り返すことで、心身は対象(環境)を心身化していくがそれには時間がかかる。対象と最初に関係するときは不安なのである。

ここで身体化に、つまりは馴染むことに失敗すれば病(心身の病)を生む、不適合症と言ってもいい。軍隊は市民社会にあるものとっては新しい対象(関係)であり、馴染むまでに時間を必要とする。この不安は軍隊生活を続けることである程度は解消していくものだ。要は軍隊という組織が、人間の心身が馴染むことのできない、そういうところを持っているか、どうかである。例えば、刑務所は人間の自由を抑圧することを目的とした場所であるから、人間はある程度は馴染むにしても、馴染み切れないものを残すし、自由の抑圧という非人間的なものを残す。軍隊というのは人間がその中にあって、人間的なものを疎外するほかないのこす組織だというところがある。それは戦争ということが人間の馴染めない行為であるというところに起因するものだが、人間的な自由を抑圧するものを持つもところにあると考えられる。これは戦争が持つ非人間的なもの(自由の抑圧)からくるものだが、それがあると思う。人間が対象と交流し、人間が馴染んでいくことを疎外するようなものが軍隊組織には構造としてある。

丸山真男は軍隊生活の中で一番つらいのは命令がいつどのようにくるのかわからず、行動をする上での自己決定が許されていない不安を指摘していた。これは自分の行動の決定が自分以外のところにあり、これがどのように自分のところにやってくるか分からないということである。自己決定という自由が奪われていることなのである。人間は自己の行動を自己のうちに予測し、判断づけているものである。自己の行動が自己の属せずとも、それがどくからどのようにやってくるから予測がつくようにできている、それが日常のありかたである。ここで丸山のいう心身のありようは特別なことである。

軍隊には軍法ということもあり、理不尽なことは禁じられている。そういう不安や恐怖は解消されることになっている。これは当てにならない。法は上位者の優位(解釈の優位)となっているからである。階級的に上位にあるものの理不尽な行為は横行する。軍隊での制裁というリンチのことを後にとりあげるが、法は

法として機能しないことは丸山も述べている。この本の中で5年次、6年次という兵は除隊になるという約束事(法)があり、みんなはそれを楽しみにしていた。それは「現地除隊。即日招集」という形で反故にされる。こういう約束だって、上層部の都合のいいようにことが運ぶ。法は法として機能しない。

 

祖父の描く軍隊は市民社会のルールとは違うルールのある社会であり、それに馴染む、それを身体化して受け入れていくには困難なこともあるが、市民社会と同じ事もある。笑いもあり、歌うもありというところである。その中で、並外れた制裁(私的リンチ)のことが出てくる。上官の命令は絶対であり、上官には制裁という私的リンチが許されていた。この軍隊のルールがどこから形成されてきたのかはわからない代物だが、これが日本の軍隊を特徴づけたものである。これは制裁というリンチの話として出てくる。司馬遼太郎の話しとして兵隊はいじめればいじめるほど強くなるというのがあるが、僕らは総括事件という連合赤軍事件を思い浮かべる。軍隊が外に向かって虐殺や蛮行、いうなら戦争犯罪というものを行う(三光作戦と呼ばれた行為)は軍隊の内部でリンチのようなこととしてある。三光作戦は蒋介石が中国共産党の瑞金ソビエトに対してとった方針「殺し尽くす」「焼き尽くす」「奪い尽くす」がはしりといわれるが、日本軍がとった軍事行動であった。これは戦争法規に反する戦争犯罪と言われる行為である。ウクライナ戦争でロシア軍の演じた戦争犯罪的行為が伝えられるが、それと同じものである。日本軍の軍律がその当時の戦争法規を逸脱していくものであったことをものがたるが、軍の内部の軍律はどうか。軍としての行為を律するものは内外にある。

軍隊ではその行動において上官の命令は絶対であり、兵はその命令に服従しなければならない。階級(軍隊の階級)を介在した上位と下位に隷属関係(上官の命令は絶対であるという)を規定した軍律があった。これは日本の軍隊の軍律としてよくしられることであり、これが軍隊の内部での理不尽な行為(制裁というリンチ、暴力的行為)を許容したものといわれる、軍隊の内部での階級を介在した暴力的行為などを防ぎきれなかったともいえる。連合赤軍事件は粛清という理不尽な行為であり、リンチなどを超えたものだが、そこに類似性をそこに見る。

これは上官の下した命令や指令を、兵が従うことが合理的であることはある。戦闘の場面では兵が上官の命令に従うことの合理性ということは考えられる。だから上官に権限を与えること、それが合理的であることもある。それは権力ということでもいいのだが、その関係は必然という面はある。それは企業の活動でもある。ここでも問題はどこにあるか。この命令と服従関係を一般化し、絶対的

化したことである。日本の軍隊は上官の命令は絶対的であり、兵がそれに従うのは絶対的であるとした。絶対化し、無限化したのだ。これは戦闘の場面での経験を拡大し、軍律化したものだろうが、それは一般化し、絶対化していいことではない。この関係はある場面では合理的であり、現実的だが、他の場面ではそうとはいえないことでもあるのだ。つまり、この規律は一般的の根拠のあるものではなく、ある場面では有効ではなく、非合理的なものにもなる。現実的で具体的な判断を要するものだ。上官の命令が絶対的である必要が戦闘という場面で生じるなら、それはその場面においてというように制限的であるべきだし、具体的であるべきことだ。こういう関係が一般化しなければならない根拠はない。戦闘の場面では必要であっても(これも本当は場面によって違うのであり、具体性を要するのだが)、一般化の必然性はない。そこを一般化してしまえば制裁(リンチ)のようなことを生む。上官の命令は絶対的であるということを軍律化してしまうことが軍という組織一般の存在に必要なことではないこと、それが部分的にしか根拠のないことは軍隊の現実としてはよくわかっていたのだと思う。これは日本の軍隊が抱えた矛盾であり、制裁という名のリンチを横行させた。

軍隊の中でのこういう関係が不合理で矛盾を生むことを軍の経験者はよくわかっていたことだろうと思う。でもそれを普遍化することを日本の軍隊はやってきた。その矛盾をこの祖父は上官の制裁(リンチ)事件として伝えている。こういった軍律を絶対化するために、これに権威と権力を導入する必要がでてくる。上官の命令は絶対的であるという権限は上官と兵との関係に階級関係を導入するしかなかったし、権力関係である。命令と隷属を含む関係である。上官と兵は命令と隷属を支配と服従をしいる権力関係なのである。この関係は軍の内部関係であるが、軍隊は国家の生み出すものだから、この関係は軍内部の特殊な関係ではなく、国家と成員との関係の反映であるようにするほかない。軍の内部で上官と兵の間に絶対的関係が成り立つためには、国家と成員の間に絶対的関係がなければならない。軍隊の内部で専制的な関係があり、国家と成員の関係が自由で民主的な関係だということはあり得ない。

軍は国家組織としてあるのだから、国家組織の原則から離れた関係が軍の組織関係としてあることは矛盾だからである。むしろこの軍の内部関係は国家関係(国家の国家上層部と成員の関係)に準じたものであること、そのことに軍の内部関係は根拠づけられる。上官と兵との関係は、国家と成員の関係から根拠づけられ、導かれるのである。当時、日本の軍隊は民主的な組織と称されていた。社会の関係(社会的出自)と関係がなく、軍隊は構成されるからであると。西欧では貴族などの上層が士官を占め兵は市民や労働者であるとされたからだ。しかし、軍隊内部の関係が民主的であるか、どうかは問われなかった。

 

昭和10年代の日中戦争の前夜に国体論がやかましく議論され、国体(天皇の統治)ということが軍を中心に叫ばれたことを僕は想起する。国家の全体主義的性格への傾斜、つまり、国家の指導部の権限の絶対化として、天皇の統治が強調されたのだが、それは軍隊の統合の問題と関連していた。軍律の絶対化、つまり上官と兵の関係は天皇と国民の関係に関連付けてなされたのだ。国家主義(ファしシズム)への国家の傾斜と軍の内部関係の専制化とは関連していた。軍の政治の拡大と天皇統治(国体)の強調は結びついていた。

日本の軍隊に天皇の統治(国体)が不可避であったのは、軍の内部関係の理念的根拠としてそれが必要だったからだ。上官の命令は絶対的である、という軍律は日本軍隊の非合理性であり、矛盾だった。これはどこに起因するのか。上官の命令に従い、それを受け入れていくことが戦闘の場面で合理的であってもそれを普遍化し、一般化して行ったからだ。軍(上層)の暴走を生み出す。軍律の強化という軍の専制化であり、暴走を生み出してゆくのである。暴走は軍の組織の絶対化の結果である。それは部分的な正しさの不当な拡張であり、非合理性への拡大になる。この軍の暴走を押しとどめること、軍という権力の拡大を制限していくことが必要だった。それができなかったのはなぜだろうか。ここには自由を取り入れざるを得なかった近代国家と軍隊がそれを実現できなかった、という

矛盾があったのだ。日本近代国家が自由をその国家構成にとりこめるかどうかは近代軍隊が自由を取り込めるかどうかでもあった。それに失敗したことと軍

あるいは国家の暴走とは深く関係している。プーチンの今回のウクライナ侵攻という暴走も同じである。

 

日本の近代軍隊において軍律と自由は矛盾すると考えられ、自由は排除あるいは抑制の対象と考えられた。自由な活動は恣意的であり、規律ある軍の行動と対立すると考えられたのだ。命令を受け入れ、それに服従することは、隷属することであり、自由はそれと対立すると考えられたのである。自由が尊重され、自由が保障されることと、必要において上官の命令を受け入れ、服従することは矛盾しない。戦闘の場面における上官の命令を尊重し、それに服従することは、強制ではなく、自由があって初めて機能すると考えたほうがいいのである。本当はそういう考えが必要なのである。強制と服従はその不可避性の理解が大事であり、自由はその認識をもたらす。自発性というか、自由を抑圧して命令の受容があるというのは人間の行動にたいする認識が浅薄なのだ。これは暴力的な行為を伴っての軍事行動の限界の認識にも関わる。僕は連合赤軍事件で生じた惨劇もこうした観点から解明できると思う。連合赤軍の指導部の面々は戦闘の恐怖を成員(メンバー)の自由の意識と結びつけた。自由は戦闘からの逃亡を促すかもしれないという恐怖に結び付けたのだが、そこは間違いだったのである。人間の行動についての認識というか理解が間違ったのだ。

 戦前において日本の軍隊は世界で一番強い軍隊とか、民主主義的な軍隊と宣伝されながら、それは看板倒れだった。そこでは自由が抑圧されていたからだ。上官の権限(権力)を制限し、できる限り自由を保証するというというのではなく、自由抑制と暴力を容認したためにその軍隊はみかけほど強くはなかったのである。かつて吉本隆明は足並みがそろうことを気かけていた軍隊が、ガムを噛んで行進する軍隊に勝てるはずがなかったのだとのべていたが、自発性と自由が抑圧されていた軍隊の弱さを指摘していたのだと思う。これはファシズムの軍隊の見かけ上の強さと本質的な弱さを見抜いたことだった。戦争が自由の抑圧であることに根本があるとしても、その中で自由の抑圧を原理化していた軍隊と、その権力を制限構していた軍隊の差異があったのだと思う。自由の抑制には自由への不信がある。ロシアとウクライナの軍隊の構造的な差異をこの観点から見るべきだし、そうすれば強さと弱さの必然性も見えてくる。

僕はこの本を読みながらそんな感想を持ったのだが、ウクライナ戦争で伝ええられるロシア軍の弱さもこのことと深く関係していると思った。ロシア軍の士気の低さや弱さはロシアのプーチンの権力体制に根本があるのだが、それはロシアの軍隊の内部構造に自由の抑圧が強くあり、兵士たちの自発性や自由が発揮できない構造にあるためだと思う。これはロシアの政治や社会の反映であり、かつての日本の軍隊が当時の政治や社会に規定づけられているのと同じである。ウクライナ軍は戦争を強いられ、隷属の要求に対して抵抗するという自発性がロシアの軍隊よりは強い要因なっている。この戦争が思わぬ形で明るみにしたことであるが、このことはかつて日中戦争における日本の軍隊の実態を浮かあがらせる。その蛮行も含めて。日本が太平洋戦争でアメリカだけではなく、中国でも敗北したことは総括しないできたことだが、これは軍隊の構造からでも発見できることである。僕はこの本からそのことを教えられた。

大本柏分苑

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