国葬と統一教会汚染に引き裂かれた安倍遺産

国葬と統一教会汚染に引き裂かれた安倍遺産

 『新しい国へ 美しい国へ 完全版』 安倍晋三

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 銃声が歴史を変える、ということになるか、どうかはわからないが、そういう衝動をあたえたのが山上の安倍晋三銃撃事件だった。この事件については「民主主義を犯すもの」という評が流されているけれども、これは極めて浅薄な評だと思う。ここには日本において民主主義は存在しているのかというあたり前の自問(意識)を欠いているからである。山上は銃撃という行為にあたって自由や民主主義的な方法では自己の意思が実現することは不可能であることを認識していたと想像される。自己意思(統一教会ヘの恨みと怒り)を実現することが、「自由や民主的」方法では不可能であることを認識していたのだと思われる。それは彼が日本で流通している民主主義がどの程度のものかよくわかっていたということである。

自由や民主主義は今やこの国の支配的イデオロギーであり理念である。しかし、これは自由や民主主義の根底である自己意思(自己意思、あるいは自己決定)の実現には疎遠な場所に置かれていて、それは空虚な理念に過ぎないこと知っていたのだ、自由や民主的な所業(行為)を行おうとすれば、「自由や民主主義」の支配とする体制と激突するほかないところがある。山上の行為を僕はテロとして否定するが、同時に意思がこういう形でしか実現できない社会の悲劇性をそこに認める。そして、彼の訴えはテロという行為形態を超えて深く浸透していくと思っている。かつて小林秀雄はロシアの文学と政治を評して近代的な理念を移入しようとしたロシアの知識人の悲劇性の問題を指摘した。近代的な理念の社会的土壌のないところでそれを存在しようとした悲劇である。自由や民主主義という近代理念がその基盤(社会性)を欠いたところで存在しようとする悲劇的性格の指摘だった、それはそのまま当時の日本にも言えたことだった。そしてこの問題はプーチンのウクライナ侵攻でも垣間見えていることだ。果たして、戦後の日本はこの悲劇性を克服しえているのか。

 

山上の安倍銃撃は深い衝撃をもたらしたのであるが、これは二つの事態をうんでいる。一つは安倍の悲劇的な死を国葬という形で取りまとめとようとする動きである。これは安倍政治を権威化して今後に残そうということであり、この安倍銃撃という事件を政治的に利用というか処理しようということである。死せる安倍は自民党の面々をこんな風に走らせているというべきか。これはすぐに息切れすることだと思われる。国民に安倍の存在を権威化する動きはないのだからである。保守の論壇雑誌は安倍賛美で飾られているが、国民の目線にはそれはほとんどない。銃撃に対する同情と安倍政治の支持とは違う事柄である。自民党の面々のきわめて政治的な動きなどすぐにその浅薄さを露呈させるだろう。

他方で山上の意図した統一教会批判は自民党との関係、それは闇の中の関係であったが、それを暴き明るみにだした。これは戦後の保守思想の実態をあからさまにしていることである。岸時代から続く統一教会と安倍派を主軸とする保守政治の関係は戦後日本の保守政治の恥部、包み隠されて闇として存続してきた恥部だが、これはパンドラの箱ではないが開かれればとどめもなく広がるだろう。政治的に隠蔽し、処理しようとする努力を政府や権力は企てるだろうが、それは簡単にいくとは思われない。

これは安倍の遺産を権威化して残そうとする動きと、他方で安倍の負の遺産を明確化しようという二つの方向に引き裂かれたうごきだが、安倍政治がその賛否をめぐってその在任中からあったことの継続といえる。安倍遺産をめぐるこの二つの方向の亀裂は今後一層深まっていくと思われる。山上の行為が政治的なテロではなかったが故に影響はさらに深く残る。そういうものであるし、人間の行為の恐ろしさである。

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「アベ政治許さない」というプラカードを毎月3日に全国一斉に掲げる行動がある。澤地久枝さんが提唱したもので国会正門前でも行われている。安倍政権は長く続いてきたが、その賛否をめぐっては在任中からあったことはよく知られている。果たして安倍政治とは何であったかはよく知られていたといえるのだろうか。彼がその政治中心命題として憲法改正(9条改正)を掲げてきたことはよく知られているが、それだって従来の内容(憲法9条第二項の交戦権の禁止と戦力非保持の改正―これは長年の自民党の主張)を自衛隊の憲法明記に変えたところで明瞭ではなくなった。これには彼が議論できる形で問題を提起しなかったということがある。それらを含めて安倍政治はその意味で分かりやすいものではなかった。逆にいえば、これが安倍政権の長く続いた秘密ともいえるのだった。初版本の『美しい国』は本の下積みになっていて見当たらないので、最新版の『新しい国 美しい国 完全版』を急遽手に入れ読んでみた。これは2006年版をベースにしたものだが、以前に読んだ時とは幾分か印象が違った。今回は安倍政治を対象的に見ようという意識が幾分か働いたためである。

安倍は岸信介を祖父に持つ政治家である。そしてそれに深い影響を受けた政治家である。この本には1960年安保の日々、渋谷の南平台の岸邸で岸信介(祖父)と佐藤栄作(叔父)の会話の光景が出てくる。僕らはデモの最終コースとして南平台を経て渋谷駅に出る道をよく通ったものだが、この南平台で岸と佐藤栄作がワインを飲みながら密談をしていたとの話は興味深い。というのは岸と佐藤は盛り上がる反安保・反岸デモに対して自衛隊を差し向けることを画策していたと伝えられることがあるからだ。この方針は当時の防衛庁長官の赤城宗徳と自衛隊の幕僚長らの反対で取りやめになった。そんな密談を、ワインを飲みながらやっていたのかもしれないと想像すると驚くのだが、ここで大事なことは安倍晋三が祖父の岸信介の政治を受け継ごうとしたことである。岸の挫折した政治的野望を実現しようとしてきたことである。端的に言えば、憲法改正である。憲法改正(自主憲法制定)は1955年に保守合同で成立した自民党が党肯としてきたものだが、戦後の保守派(自民党)には対立する二つの考えがあった。積極的に憲法改正を志向する部分と憲法改正には消極的で戦後憲法、特に憲法9条は擁護する部分とがあり。保守派の憲法改正についての考えは複雑だった。一般には保守派は憲法改正派で野党は反改憲派だとみなされてきたが、保守派は複雑だったのである。その中で岸信介は憲法改正の積極的な推進者だったが、保守派の中の多数派ではなかった。この岸信介の政治的性格を明らかにすることは安倍晋三の政治的性格を明らかにすることにもなる。

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安倍晋三は岸信介の政治的コピーというべきとことがあるのだが、特に憲法改正についての議論はそうであると言ってよい。ただ、自衛隊の憲法への明記という考えは岸にはない考えだったが、これについては安倍がまともな説明をしなかったものであり、謎めいたところを残して行った。安倍晋三の政治的性格はその意味では岸信介を探索すればみえてくるところがある。岸はアメリカ主導の戦後改革、とりわけ憲法改正(大日本帝国憲法から日本国憲法への改正)はアメリカの日本弱体化戦略に基づくものとした。そしてこれは日本の国家主権の制限であり、アメリカ支配の継続とみなした。戦後体制の清算、日本の独立、国家主権の回復というのが岸の構想したものであった。その眼目は戦争放棄を規定した憲法改正であり、天皇制国家から民主的国家への転換(国体の変更)の修正である。岸はアメリカ占領軍が独裁化した国家権力を解体し、制限したものを行き過ぎた民主主義として修正し、国家権力の再編強化を目論んだ。警職法の改正とか、平気でデモを自衛隊で弾圧させようとしたように。戦後体制の清算、

それは日本の独立、軍隊の復活、国家権力の支配力強化(権限強化)であり、戦後国家の修正だった。歴史の逆コースと呼ばれたものである。戦後国家の修正が構想であり,主張だった。この岸の構想に立ちはだかったのは吉田ドクトリンというもう一つの保守派の動きであり、保守本領と呼ばれた存在だった。軽武装-経済重視という考えであり、戦後改革は肯定、とりわけ国家領域の問題は肯定してきた。それは国家観や戦争観が曖昧と言われようが、それには手を付けないという考えであり、安全保障などのことはアメリカに任せておいてもよいのであり、日本はさしあたり経済の再生に力をそそぐべきだという考えだった。戦後はこの保守派が主流で岸政治は少数派であり、異端だった。

岸はこうした構想のものとで安保改定を推進したが、その後の池田内閣で彼の政治構想は封印された。池田首相の憲法論議の封印と経済の高度成長路線への注力である。安倍はこの本の中で岸信介の進めた安保改定を再評価しているのであるが、同時に挫折した岸政治を引き継ごうとしている。

日本は1951年に形式的には主権を回復したが、戦後日本の枠組みは占領時代に作られたものだが、それは日本が列強国に対抗し、その手足をしばることにあった。特に憲法改正はそうだった。国の骨格は日本国民自らの手で作り出さなければならない、そうでなければ真の主権の回復はならないし、独立にならないという。安倍は「まさに憲法の改正こそは、『独立の回復』の象徴であり、具体な手立てだったのである」(33p)という。

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安倍の戦後体制の清算という言い方には岸政治の踏襲が典型的に現れている。戦後憲法には制定過程に瑕疵があるというのは保守派の憲法改正論の伝統的な改正理由である。押しつけ憲法論である。安倍は岸が国家主権の回復、軍隊の復権、国家権限の強化という構想を持っていたことを踏襲しようとした。だが、岸政治は戦後の保守本流派で封印されてきた。そして安倍の父親である安部晋太郎によって形成された清話会として継承されようとしてきた。しかし、小泉純一郎はその系譜の政治家で首相になったが、岸政治を踏襲したとは言えないのであり、その意味で安倍は特殊であると言える。清話会が受け継いだ岸政治は統一教会との密接な関係くらいである。戦後の日本の政治が曖昧にしてきた国家観、とりわけ戦争観の問題に踏み込んだところに岸政治の特徴があったのだが、これは清話会の政治家もやらないできたことだった。

安倍はそこを引き継ごうとしたのであるが、それは岸の国家主義とでもいうべき国家観であった。これは安倍が国家の任務というか、課題を<安全保障>と<社会保障>と言い切ったところにそれは見える。古典的な国家観といえばそういえるのだが、安倍は<安全保障>を国家の中心的な任務にした。国家が<安全保障>を名目に暴走し、安全保障を台無しにしたことの反省があって国家の安全保障(戦争力)の問題が戦後には曖昧になってきた。そこには様々な議論があり、それは続けられてきたが、安倍は岸の国家主権の復権構想をこういう形で引き継いだと言える。

岸は国家主権の復権と形で踏み込んだのであるが、この場合に彼は伝統的な国家の復権ということと天皇制国家の復権ということは重ねなかった。戦後の右翼は多かれ少なかれ、そういう主張をしてきたのであるが、天皇制国家での戦争の反省があって、体制的な戦後の保守派はそこへは踏み込まなかった。岸は戦前革新官僚であり、天皇機関説者であったから、天皇制についての愛着がなかったこともあるが、ここは伝統的な国家主義という理念を取った。国家主義というか、国家が統治の主体という国家観であり、国民主権のような国家観とは別のものである。岸は戦後の一時期、社会党に入ろうかとしたらしいから民主的な政治家を志向していたといわれるが、これは国家主義的な民主主義であり、国権派的な民主主義であった、と言えるかもしれない。岸をもう一つ特徴づけていたのは岸が反共産主義という理念を強く持った政治家だったということである。岸がアメリカ共和党の政治家と親しく、統一教会と深く関係していたのは反共産主義という理念であり、思想だった。これは戦後の戦後の保守政治を支配した理念といわれる。共産主義を掲げる左翼(反体制派9に対抗する保守は反共産主義を共通の理念にしているようにおもわれたが、保守派の面々においてそれは度合いがちがった。例えば、田名角栄が社会民主主義者と言われたように。

この反共主義というのは保守の中の親米、反米ということも複雑にしてきた。日本戦後の保守派の政治家は反米保守派と親米保守派に系譜づけられるという。これは単純に見えても複雑である。岸は戦後の占領下の改革を清算しようとしたのだから、反米保守とみなさるのかもしれない。しかし、保守本流の田中角栄は親米保守だったのだろうか。反米とか親米とかは複雑なのであり、その意味では難しいことだった。岸は戦後の占領政策の清算と日本国家の独立を掲げて安保改定を推進したのだから、反米保守派とみなされてきたのだが、実際はアメリカとの同盟の推進者でもあった。親米とみなされた吉田茂がアメリカからの憲法改正を断ったのとは対極である。これは岸が巣鴨拘留時代にアメリカのエージントになったと言われたりしたのであるが、その秘密は岸が反共産主義という理念を強く持ったからだと思う。戦後の米ソ対立は共産主義をめぐる対立として喧伝されてきたが、これは虚構の概念であった。ソ連圏は共産主義圏といわれたにしても、共産主義を体現していたことはなく、米ソの対立は単なる国家間対立にすぎなかった。国家間対立に理念付け、共産主義国家、民主的国家という形を与えただけであり、自己の国家理念を価値づけるために導かれた虚構のイデオロギーに過ぎなかった。相互に自己の国家理念を明瞭なものにするために

利用されたに過ぎないものだった。例えば、アメリカは自由で民主主義で人権の保障された国家という時、その理念は浸透するが現実には抑圧や差別があり、非民主的で人権の守らいない国家ということを隠蔽するように利用されたのである。社会主義権力と称された共産圏ではその専制的で非民主的な性格を隠蔽するために反資本主義ということが使われたように。

それぞれの国家構造の矛盾的性格を隠蔽するために対抗概念として反共産主義や反資本主義が使われた。ソ連圏の国家も、アメリカ圏の国家も国家と大衆の間の関係の矛盾を隠蔽するために対立を利用したのである。権力は反共産主義という理念で自己の非民主的な政治関係(例えば統一教会と岸派との関係)を隠蔽してきたのである。霊感商法のような詐欺というべき犯罪行為を繰り返す

団体と政治関係を結び相互に支援をするという関係には反共産主義という理念かぶさっていた。反共産主義は虚構であり、政治的に利用されたものだったが、

岸にはそれは強かった。保守本流といわれた保守の面々は反共産主義という理念は薄かったのである。田中角栄は代表例だろう。

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岸の国家主義は反共産主義ということで理念的な補強がなされてきた。冷戦構造の反共主義は影を薄くしていくが、安倍になるとここのところはアメリカへの傾斜が強まる。この本を読むと自由と民主主義と人権を基本理念としてきたという言葉がある。例えば、「日本は、六十年にわたって自由と民主主義と基本的人権、そして法律の支配の下で、謙虚に国づくりと国際貢献に励んできた」と。このフレーズは随所でみられるし、その模範をアメリカに見出している。安全保障とは自由や民主を守るともいうのだが、これは反共産主義から共産主義を抜かした理念ともいうべきだが、本当はアメリカの自由や民主主義、あるいは価値観が現実との間で孕んでいた矛盾(こうした価値観は国家的な理念としてありながら、現実には存在しないという矛盾にあること、つまり宗教的な理念に過ぎないということ)に気が付き、そこに問題の目を及ぼすべきだった。アメリカを自由や民主主義の体現された国家とみなす前に、アメリカの理念と現実の関係から本当の自由や民主主義とは何かが問われるべきだった。民主主義をかかげながら、その非民主的な行為(1960年安保での国会強行採決)で糾弾されたように、安倍は非民主的な行為をやってきたのだから。安倍にとってアメリカが自由や民主主義という価値観を体現しているというとき、それは自己の行為を自由で民主主義にあるものとして権威づけるためのものだった。安倍は権威を求まる政治家であり。その意味では非民主的な政治家だった。民主主義とはいろいろ定義づけられるが、一言で言えば「議論による統治」である。これは権威による統治と対極にあるものだ。安倍はこの最低の要件をも満たし得ない政治家だった。「議論ができなかった」「議論を組織できなかった」、人々は安倍のこの政治的性格を見抜いていた。その安倍が人気を得たのは「権威による統治(政治)」という土壌がそれなりにあるためである。

自民党の政治家が我々はアメリカなどと価値観を共有しているとき、自由や民主主義や人権というような価値観に立っているということだが、この価値観は共産主義との対抗概念であることで存在価値が政治的に保障されるというようにかつてはあった。共産主義が自己解体したときに、いうべきはこの価値観の勝利ではなく、対抗概念によって覆われていたこの価値観と現実の関係が問われだしたというべきだった。繰り返すことになるが安倍にはアメリカの自由や民主主義の現実との関係やそこでの矛盾の洞察はない。自由や民主主義への自問も問いかけはないのだ。彼はアメリカという権威、を自己の政治的権威にしたかっただけである。

 

安倍の伝統や美しい国というナショナリズム的言動がなぜ、アメリカ的価値観の受容となるのか不思議さの秘密はここにある。岸の場合には反共という言葉が媒介されることで、反米的な言動が親米的な言動と連携していたのだが、安倍の場合は薄められた形でこれはあるといえる。統一教会と腐れ縁的な関係が続いてきたのも薄められた反共の存在の由縁である。

 安部のナシナリズム的言動は「美しい国」とか「日本を取り戻す」という言動に顕著であるが、それは深さを持ったものではない。その特徴はパトリシズム(愛郷心)とナショナリズムを安易に結び付けているだけのものだ。パトリシズムは対象との関係が時間的に深ければそれが馴染むのも深く、ということは対象が身体化される度合いが強く、人は愛着をもつということである。対象が身近であるのは郷土であり、郷土愛という概念で示される。ナショナリズムは郷土愛の転位したものではなく、国家愛(愛国心)として取り込まれたものであり、そこには幻想の構造が媒介されている。幻想の構造とは政治的なものである。だからパトリということとナショナリズムには区別が重要なのだが、安倍にはその自覚はない。彼が伝統とか美しい国とかいう時、文化的・宗教的なものと政治的な区別がない。この点は彼の天皇観によく表れている。天皇はずうっと象徴天皇だったというが、これは平凡な天皇論であり、三島由紀夫の天皇論ほどの深さもない。つまりこのことは彼の伝統論というナショナリズム的な言動は政治的であって思想的な深さはないのだ。統一教会との関係を闇の領域も含めて存続させてきたことは彼の政治理念の浅さを示す事柄だと思う。その空虚さとでもいうべきか。この本の隠された背景にはそれがあることを僕は山上の行為で知らされたのかもしれない。

大本柏分苑

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