大本弾圧事件(第1~3次)の真実

宇宙の実在は神である。無量無辺の現象は神の意思の発作である。一切の現象は実在であり、時と場所との差別なく神の意思の表現、すなわち発作である。天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の御内証が分れて精神、物質の2系統を為す。真言密教は胎蔵、金剛の二大界を説き、法華経は釈迦、多宝の並座を説く。実在に二大系統の含蔵される事は宗教の哲学的方面を常に説く所である。

<第1次事件>

大正7年9月 原内閣発足

大正9年~大正10年 宮中某重大事件

大正10年2月12日(紀元節の翌日で皇室の関与が明確) 第1次大本事件(聖師126日の獄中生活)

大正10年9月 安田善次郎暗殺(1ケ月後に起きた原敬殺害事件を誘発した)

大正10年10月 綾部本宮山神殿を破壊

大正10年11月 原敬 東京駅で殺害

大正11年2月 山縣有朋 病死

大正12年1~2月 物語第47&52巻 口述

昭和6年11月 渋沢栄一 死去

霊界物語第52巻、応対盗という章に、冥土の八衢(やちまた)の場面があり、原敬と山県有朋が登場する。

ハイ私は敬助(原敬)と申します。

どっか具合が悪いか、チッと顔色が悪いぢゃないか

何か停車場のような所へ行って居ったと思へば、私の胸に行き当たったものがある。いつの間にか斯様な所へやって来ました。(大正10年11月東京駅で殺害される)

年齢は幾つだ

ハイ60歳で御座います。

お前は余程ハラの悪い男だなア、エルサレムの宮を部下の奴に命じて叩き潰したのはその方だろう(大正10年10月綾部本宮山神殿が破壊される)

イエ滅相な、決して私ぢゃありませぬ。片山君(山縣有朋)が命令致しました。決して主犯ではありませぬ。

この章は大正12年2月10日の口述で、聖師が山縣有朋を第1次大本事件(大正10年2月)の主犯として特定した大切な章です。

大正6年に明治天皇妃の一条美子の姪にあたる鶴殿親子(ちかこ)が、出口王仁三郎が有栖川熾仁親王のご落胤なのか確かめる為、大本に入信する。大正9年から10年にかけての宮中某重大事件は、皇太子裕仁親王の妃に内定していた久邇宮良子が、母方の島津家に由来する色盲の血統を受けているとの話を巡って、皇太子妃の辞退を求める山縣有朋らの長州閥と、それに反対する頭山満・内田良平などの右翼が対立した。原敬は内定取り消しに同意しており、山縣と同じだったが、軍拡派の山縣と軍縮派の原敬は政治手法で異なり微妙な関係にあった。宮中某重大事件には鶴殿親子を通じて王仁三郎は関わっており、山縣は退けられる。そして自らの手を汚さずに、大正10年、原敬に大本潰しを命令させる。(第一次大本弾圧事件)

ご落胤である聖師が宮中に足掛かりを得た時期に、摂政の宮(大正10年11月就任)周辺が危惧した仕業である。

<第2次事件>

明治32年公爵毛利元徳(もとのり)の八男が、伊藤博文の仲介により、公爵西園寺公望の養子となり西園寺八郎と名乗る。(皇妃を出せる立場にあった皇族の男性が性的に協力)

明治34年4月大正天皇(当時:皇太子嘉仁親王)の第一皇子として誕生。母は、貞明皇后。父親は西園寺八郎と云われ、死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた。

大正10年11月 皇太子裕仁が大正天皇の身体の重患により自らの皇位践祚まで摂政宮となる。

昭和6年9月 本宮山神殿跡に、神は万物普遍の霊にして 人は天地経綸の大司宰也 神人合一して茲に無限の権力を発揮すと云う、教碑が建立された十日後に満州事変が勃発。

昭和8年1月 大本を皇道大本に復活する。

昭和8年10月~昭和9年8月 天祥地瑞口述

昭和9年7月 昭和神聖会発会式

霊界物語67巻浮島の怪猫で,天皇制ファシズムの崩壊を預言している。偽天皇制とは、明治天皇が大室寅之祐であり、昭和天皇が西園寺八郎の子であるなど、戦前不敬罪として日本人のタブー視された盲点です。出口王仁三郎は有栖川宮熾仁親王のご落胤で正当な北朝の天皇でした。西園寺公望が昭和天皇に上奏し、大本弾圧を強行し、10年後、敗戦となりました。

明治天皇の写真がない、明治44年南朝正統の勅裁、明治神宮の昭憲皇太后の石碑、大正天皇に子種がない、そして昭和10年12月8日 昭和天皇の命令による大本弾圧で,教団施設をダイナマイトで破壊したり、殺人的拷問などで、30余名の殉教者を出す、天皇としての自信をつけ、翌昭和11年2.26で<朕が先頭に立ち、鎮圧する>と豪語、北一輝は<若殿に兜とられて負けいくさ>の辞世を残す。司馬遼太郎は中国に勝てない戦力で米国に宣戦と批判、東条との親密さは異常だった事は良く知られる。

大本弾圧の発端は西園寺公望の秘書原田日記に記され、公望が北朝の王仁三郎を討つ必要があったと云う。戦後、綾部駅に着いた昭和天皇が大本はどちらの方向かと、京都の蜷川知事に尋ね、知事が反対の方向を指したという逸話は、大本信者に語り継がれています。大本弾圧は1935年12月8日内務省が不敬罪/治安維持法により大本を叩き潰した。表面的にはワシントン・ロンドン条約/天皇機関説反対により岡田倒閣/元老への揺さぶりを鎮圧したとされる。実態はそうではない。首謀者は西園寺公望と昭和天皇である。昭和天皇の実父は西園寺八郎といわれ、終生八郎は昭和天皇に寄り添っている。西園寺公望の秘書原田熊雄の日記には、大本が政治家達に盛んに運動している事を逐一公望に報告し、大本(教)というものを取締まれと激を飛ばしている。何故公望はそこまで大本を憎んだのか、出口王仁三郎が有栖川宮熾仁親王のご落胤であるがゆえに、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると思った。昭和天皇も同意した。1935年6月御前会議で大本弾圧が決定された。弾圧のやり方は叩き潰す。日本宗教史上稀にみる醜いやり方である。細部にわたって公望は指示したとされ、1940年死去する。

昭和17年8月7日 聖師、2代教主 保釈出所 (6年8ヶ月に及ぶ拘禁)

昭和20年9月8日 治安維持法違反無罪

昭和20年10月17日 大赦令免訴

昭和20年12月8日 綾部彰徳殿にて事件解決報告祭

昭和20年12月30日 吉岡発言(大阪朝日新聞)

昭和23年1月19日 聖師昇天 (76才5ヶ月)

現界的にも正当な北朝の天皇でもあり、みろく様としての聖師を拘禁した罪は重く、将来の天皇制はあり得ないと云える。聖師は明治・大正・昭和・平成後を金・銀・銅・泥と預言しておられる。

12月8日とは、昭和天皇側の身勝手な都合である。2度もの御前会議で大本弾圧(1935年)と太平洋戦争開戦(1941年)はゴロ合わせのように同じ日付である。よほど覚悟を決めたのだろう。

NHKは伊藤博文(1841~1909)を大河ドラマ化すべきだ。

1858年 安政の大獄で恩師吉田松陰が斬殺され、伊藤俊輔(17才)が小塚原に遺体を引き取る。遺体を清める異常な体験から、テロリストへ変貌する、1863年に長州ファイブとして英国へ密航留学し化学を学び後、処刑を命じた幕府倒幕(攘夷)そして幕府を支持した孝明天皇の暗殺(1866年)を実行したとされる。上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させ、薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。1867年7月睦人親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。明治天皇の勅裁には伊藤が意のままに作成できた。大正天皇には子種がなく、1899年公爵毛利元徳(もとのり)の八男が、伊藤博文の仲介により、公爵西園寺公望の養子となり西園寺八郎と名乗り、死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた。伊藤博文は権力者として、明治天皇から昭和天皇までデッチ上げたことになる。

1921年、第1次大本事件は宮中某重大事件で、聖師が鶴殿親子より皇室へ、問題なしと伝え、伊藤後の権力者山縣有朋が失脚した恨みから事件を起こした。

1935年、第2次大本事件は全国組織の昭和神聖会発足により、ご落胤である聖師が表舞台に立ち、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると判断した西園寺公望の犯行である。

<第3次事件>

昭和37年7月26日 出口栄二先生 周恩来首相と会談

昭和37年11月3日 総長制を本部長・祭司制に変更

昭和54年5月  緑寿館(教主公館)完成

昭和55年3月  いづとみづの会設立

昭和55年8月  宮垣分苑設立 (右派が本部から分離)

昭和56年10月  出口栄二を守る会結成

昭和57年(1982年)5月26日 大阪都ホテルにて教継を直美様より聖子に変更

昭和57年6月1日 4代教主出口直美様を守る会結成

昭和61年1月  京太郎が教主補補佐となる

平成2年9月  3代教主昇天、聖子が4代教主を名乗る。

平成3年4月  大本信徒連合会発足

平成13年4月  聖子昇天、出口紅が5代教主を名乗る。

平成18年12月  出口栄二先生昇天

平成24年11月  要荘・菊水荘建物明け渡し上告棄却(本部側敗訴)

聖師は大本教義が本当に理解出来る信者は50名しか居ない、第3次は身内から起きると預言されており現実となった。お筆先にも、悪の御用は外部でなく出口の家の者にさせると書かれている。

尚、出口栄二先生は有栖川宮熾仁親王のもう一人の落胤、田中たまの娘、家口いくの子です。聖師が孫の4代教主出口直美の夫に選びました。

第81巻 総説より

故に現今行はれゐる所の本元は何なりと詰問すれば、敢て一言も答ふる者無し。況や其の本元が寄りて来る極元の事は、夢にも思ひ居らざる浅ましき餓鬼僧のみ也。

ササ有りと知る人あらば、道統の本元寄而来るの極元は是也と一句たりとも説明して見よ。釈迦も達磨もその道統の本元因て来るの極元を不知故に、直接明言に道法を説明する事不能也。

大本三代の御用が余りにも重すぎたかも知れない。生まれながらに木花姫の精霊の下った肉宮とされ、水晶の種と崇められ、最初の結婚も本人の意志とは関係なく、弾圧で父母は未決に収監され、2度目の夫・日出麿は厳しい拷問で正気を失った。1943年 日向良広との間に生まれた楯彦ちゃんが5才で病死。木庭氏の新月の光、聖師様の餞別に詳しい。

3次事件の背景には1963年頃の平和運動の停止があり、200名にも及ぶ出口家などの人員が整理され教団一つに詰め込まれ、役職が限られた事が大きい。京太郞などは梅松教会なる宗教法人を設立し今日に至る。1936年生まれの京太郎は日向良広に教育され、教団の乗っ取りを謀り、出口虎雄、杭迫軍二、山本荻江、宇佐美龍堂らと三代を追い詰め、1982年、道統を変更させる。

大本信徒連合会にとっても正念場である。地道に宣教するのも良いが、本部側の思う壺である。

一旗揚げて、質量ともに圧倒する必要がある。

以上です。

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