『わたしは「セロ弾きのゴーシユ」』(中村哲)
(1)
中村哲さんが殺害された報を受けた時の衝撃は忘れられない。なぜ、まさか、という思いがやってきたのだが、彼はこういう事態もありうることを十二分に覚悟をしていたのだとも思えた。それだけ余計に切ない思いがした。今、彼の遺した言動にあらためて接して、その思いは一層、強まる。『わたしは「セロ弾きのゴーシュ』を読みながらの感想だ。僕が彼の講演を初めて聞いたのは2000年の半ばだったと思う。こんなことがあり得るのかという感動というか、奇跡だという思いだったが、それは僕らがわからず、考えあぐねていることにヒントを与えるものでもあった。
記憶に間違いがなければ、講演を聞いた頃、僕らは、アフガニスタンへのアメリカの侵攻(不朽の自由作戦、あるいは反テロ戦争と呼ばれていた)に追随する日本政府の自衛隊派遣への抗議行動をやっていた。何故、日本政府はアフガニスタンに自衛隊を派遣するのか、反テロ戦争ってどういう考えなのかを問いただしてもいた。言うまでもない、政府や権力筋からのまともな答えなんかなかった。確か、石破茂が防衛大臣だったと思うが、彼の答弁は何一つ僕らの疑念に答えるもではなかった。「9・11」事件に端を発したアメリカのアフガニスタン侵攻は、「9・11」を新たな戦争ととらえたアメリカの指導層(ブッシュ大統領等)による誤りによっていたが、それに追随する日本政府の行動(加担としての自衛隊派遣)はわけのわからないものだった。ただ、アメリカの戦争に追随しているだけで、このことだけが明瞭だった、ただ、僕らもアフガニスタンでの問題がどこにあり、どうすれば解決する道はあるのは分からなかった。自問自答を繰り返していたけれど、答えはそれを見いだせないでいた。ロシアのアフガニスタン侵攻に対する抵抗闘争が内戦として続いて行く事態をどう解決すべきなのか、分らなかったと言える。アフガニスタンのことは分からなかったし、見えなかった。
中村哲さんの講演はそこに一つの道というか、可能性を提示しているように思えた。彼が続くアフガニスタンの内戦を解決していく道筋を構想し、それを提示しようとしていたのか、どうかは分からない。彼もその解決は分からなかったし、考えあぐねていたのだというのが実際であろう。彼も分からなかったにしても彼の行為がそれを暗示するものを提示していたというのが本当の所であろう。
また、彼はアフガニスタンの人々が、日本が憲法9条により外国に軍隊を派遣しないできたことを深く信頼しており、それが壊れることを危惧しているとも語ったことにも大きな示唆をうけた。軍事的行動で自由な統治を実現するとか、テロを撲滅するというのは妄想であると思っていたが、それを裏付けることがこの発言にはうかがえたのだ。いま、アフガニスタンやイラクへの軍事行動が何をもたらしたのかを誰も語らないが。その実際の所を中村さんは語っていたのである。『帰還兵はなぜ自殺するのか』(デイビット・フィンケル)、『兵士は戦場で何を見たか』(デイビット・フィンケル)などでイラクの戦場でのことが書かれたものはあるが、アフガニスタンでの戦争ではそれすらもない。政府筋がアフガニスタンに自衛隊を派遣したことなど何の報告もしないことを思えば、中村哲さんの現地報告は大変なことだった。
(2)
中村哲さんが凶弾で倒れたという報に接してから。もう二年あまり経つのだが、この間にいくつも著作が出ている。僕はすべてに目を通しているわけではないが、ひと通りは目を通した。どれも深い感銘を受け、想起させられる事を多いものだが、この著作は彼のアフガニスタンに出かけていく発端から、用水路建設にいたる歴史が見えて彼の活動をよく知ることができる。加藤登紀子さんの『哲さんの声が聞こえる』もいい本だが、彼の活動を知るための恰好のものと言える。
彼のアフガニスタンでの行動の全体も見えるがその細部もよく見える。俗に細部に真理は宿るというが、細部についての発言は彼しか語れない言葉に満ちており誰しもが深い感銘を受けると思う。
この本の真ん中あたりで、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』が取り上げられている。自分を評する時のものとして取り上げられているのだが、納得できる。彼のひょうひょうとした姿(そう見えたのだが)の内なるものを感得させてくれる。『セロ弾きのゴーシュ』を僕は小学3年生の時に読んだ。これは僕が初めて読んだ本と言ってもいいものだが、上級生のガキ大将が夢中で読んでいたので、僕も次の日こっそり図書館で読んだ。そして、これが僕の読書の出発になった。この本は得た感動は僕の心に深く残ってきた。だから彼がこの作品を取り上げているのは嬉しかった。『セロ弾きのゴーシュ』が革命的な本である。それはかつて吉本隆明が太宰治の『走れメロス』を最も革命的な本だと言ったような意味である。中村哲が『セロ弾きのゴーシュ』の好きな作品だとし自己評に取りだしているのは彼にふさわしというか、彼の革命性を自然に示しているとも思える。多くの人が宮沢賢治のこの作品を愛しているように、彼が人々に愛される理由を開示してもいるのだと思う。彼は背骨を支えてきたものは何かと聞かれてつぎのよう答えている。
「よく人から聞かれるんですけれど、自分でもよくわからないんですね。〈中略〉、自分が出ていけば何とかなるんじゃなかろうかという状況の時に、そこを引き下がるかどうかの問題で、引き下がれなかったもんですから続いてきたというのが実態で、別にわたしに立派な思想があったわけじゃないですね」
この答えの後に「セロ弾きゴーシュ」の事が出て来るのだが、意思を継続して力を発揮している時、人はそこに何かの思想というか、信念のようなものがあると思いがちだし、問われる方もそれに応じた答えをする。それから見れば、この中村哲さんの答えは正直であるし、本当のことをこたえていると思う。意思の持続は大事だし、その継続は力である。意思の持続によって成し遂げられたと見えることも多々ある。しかし、その時に、意思は思想や信念で成り立っていると思いがちだが、意思はもっと別のもので形成されている。それは中村哲さんが言うう、男気〈義を見てせざるは勇なきなりというような男の見栄〉とか、引き下がれないというものである。思想や信念は意思の持続の中で形成されていくことなのだ。
ここでの彼の答えは嘘がないというか、見事なものだと思う。この中で、僕が感銘を受けるのはアフガニスタンという地で報いのすくないように見える行為を続けながらつぎのように語るところである。「ものを持たない人の、生身の人間の姿とでも言いますかな、そういうこころのようなものを感じますよね、それが魅力と言えば魅力でしようね」。これは彼が求めてやってきたものではないだろう。この地であることで自然に発見したものだろう。僕らには失われたものかもしれないが、それをこんな風に語れるのはたいしたことである。
(3)
この本の最初は彼がアフガニスタンに出掛ける契機というか、端緒の話からはじまっている。その話で面白いのは彼が医師と出掛けるのは山(登山)が好きだったたからだという箇所である。彼が最初にアフガニスタンに出掛けていくのはハンセン病の根絶のための医師派遣に応じてことだとあるが、興味深いのは、彼が初めから用水路建設のような構想をもって行ったのではなかったといことである。遊びでというか、登山遠征隊の同行医師として行ったのが始まりだとのべている。彼は内戦の続くアフガニスタンにハンセン病の医師として派遣されいくつかの診療所を創り治療を続けてきた。これはずうっと続けられているのだが、そうした中で彼は治療に様々の工夫をやりながら展開する。それはエピソード風に語られる治療行為のことであり、それは僕らが想像するような治療ではなく、アフガニスタンの現状の中で僕らにはかんがえられないような治療行為を展開して行く。例えば、「裏傷の予防」としてサンダルの工房を開きサンダルを提供するというようなことである。日本などで考えられる治療の形態をどんどんと変えていくことになるが、その対応力というものが素晴らしい。
端的に言えば、日本などの医療を持ち込み、適用すれば、こうした地域の医療問題は解決するというのではなく、その地域に即した現実的な医療方法を編み出して行くのである。それは具体的に治療というものを展開して行くことであり、その対応力は素晴らしいと思う。闘いにはどんな場合にも具体性が要求されるのであり、多くの場合にその具体性を欠如しがちだということがある。病気との闘いである治療行為にもそれはいえるだろう。治療という医療には理論というか、抽象的力も必要である。治療技術の発展にはそれは不可欠である。だから医療の後進的地域への援助には先進地域の医療を持ち込み、適用すればよいと考えるか、そういうイメージをいだきがちだが、治療の条件というのはあり、それには具体的な事柄を考えなければならない。そうでなければ絵にかいた餅ということになりかねないのだ。この本を読んでいて感銘深いのは中村哲さんが具体的に医療の現実を考え、そこで様々の治療を生み出していく実践性というか、実践的対応力である。彼の治療は既存の形で続けられる一方で、予防も含めた面に手を延ばすことになる。これは命の水というか、新鮮な水の必要を知り、水の提供をはじめる。井戸堀を展開していくことである。日本は水に恵まれて地域であり、水道というものも完備されていて、現在では水の大事さはあまり意識されないかもしれない。僕らの子供のころは隣に水をもらいいくことがまだあり、水の確保が大変なことはまだあったが、アフガニスタンでは水の問題が切実なことだった。何本(1300本とも言われた)もの井戸を掘り、水を医療活動の一環として展開して行く。ここ活動はすがすがし。やがてそれは用水路建設に続いて行く。この本では「命の水」(第4章)以降がその展開になっている。
中村哲のアフガニスタンでの活動としてこの用水路建設はメインな活動としてよく知られている。彼の様々な治療活動や井戸掘りなどの発展というか、集大成のようなものとしてそれが紹介されてきたからである。干ばつもあって、土地から離れ都市へ流れて行く人の多出する中で、かれは用水流建設をはじめる。内戦が続き出口のない状況にあるように見えたアフガニスタンで彼はこうみていた。
「まず、普通の一般民衆、これは大半が農民でありますけれど、こういった人々が安心して暮らせる状態、具体的に言いますと、パンと水、食べ物と清潔な飲料水これさえあればアフガン問題のほとんどが、わたしはかたが付くと思います。少なくとも、この戦乱状態もおさまるだろうし、難民問題も解決するだろうというのが、わたしの見かたというよりは一般的な人々の見かたでしよう。」(第5章難民と真珠の水)。
こういう状態の彼は砂漠化した土地に用水路を建設し、何十万人という人が農に就くことを可能にした。この辺りはよく知られたことだが、この本でじっくりと味わってもらいたいところである。
「里が出来て行く、これは見ていて楽しいものなんですね。この楽しみだけは死ぬまで離したくないと、こういう風に思っています」。こういう言葉を語れるとは男冥利につきるということだろう。
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