『立花隆 最後に伝えたいこと』
(1)
僕は立花隆のいい読者だったわけではないが、彼の著作が僕に多くの衝撃をもたらしたことは疑いない。とりわけ、田中角栄の金脈を描いた『田中角栄研究 その金脈と人脈』(以下角栄本)は衝撃的だった。また、『臨死体験』もそうだった、と言える。その後も立花の言動は僕には気になる存在だったし、その著作には可能な限り目を通してきたと言える。彼が戦後世代を代表する優れたジャーナリストであり、知識人であったことは確かである。
この立花の最後の著作といわれるものが『立花隆 最後に伝えたいこと』である。これは最後に伝えたいこととして彼の講演と対談(長崎大学の講演と大江健三郎との対談)を収録したものである。文藝春秋社からは『知の巨人 立花隆のすべて』と題されたムック本もあり、『立花隆の最終講義』(新書)もある。彼は癌での闘病も伝えられており、癌についての著作もあるが、僕は彼が死を意識せざるをえない状況で何にこだわっていたのかに興味を引かれた。彼が僕と同世代であるということも関係しているが、彼がその晩年に何にこだわったのかというのは、僕らの現在の知的(思想的)こだわりと深く関わっているからだ。
かつて立花隆が角栄本で田中角栄の金脈と人脈を描いた時の衝撃は忘れられない。保守政治における『金と政治』の問題をその隠された、言うなら闇の問題をこのように暴いたものはかつてなかったことだったからだ。自民党の総裁選では金が飛び交い金力で総裁が決するとされた時代である。『渡邊恒雄回顧録』を読めばこれは詳しい。田中角栄はその象徴ともいえる存在だった。その田中角栄は総理について二年も持たずに退陣するのだが、それには田中の金脈と人脈も暴露が大きかったと言われる。彼の退陣にこれがどこまで作用していたのかは明瞭に言えないにしても、大きな影響を与えたことは疑いない。この田中角栄はやがてロッキード事件で訴追される。立花はこの事件に関わり、『ロッキード事件裁判傍聴記』等をだしていた。僕もロッキード事件には興味があり、これは注視していたのだが、僕は途中から立花のロッキード裁判での田中角栄批判には違和をおぼえた。そしてこれは彼の金脈批判にもつながった。
これは突き詰めていえば金権政治批判への違和と言ってもいい。金権政治というのは金力を政治力として展開する政治のことであるが、田中が金を手にし、それを使う事において長けた政治家であったことは疑いないが、彼はそれを持って政治力を発揮しえたというのは違うことであると思えるところがあったからである。「政治と金」、「政治のなか金」という問題はもっと複雑な問題であることを経験しつつあることが僕にはあった。彼が田中金脈からロッキード事件への批判をその先陣で展開していること、そこでの見解には違和もあったが、日本の政治を認識する契機をなったことは確かだった。そういう刺激を受けた。
その後、彼は死の問題についてすぐれた探索をなした。彼は自分が死を恐れていて死の恐怖なんか超越している人に、それを乗り越える秘訣をきいてやろうという動機でその探索をしたのだという。彼はあのころ一般社会では死について話すことも聞くこともタブー視されておりそれを破ろうとしたとも言っているが、死の問題は僕らの大きな思想的なテーマだった。1960年の安保闘争における樺美智子さんの死や三島由紀夫の死など死について考える契機になるものも存在していた。彼のこの探究は『臨死体験』になって現れた。臨死体験というのは死に近い状態に置かれて生還した人の体験であるが、それは死後の世界の体験であるか、人間が想像力において獲得した死の世界(脳で得て幻想的世界)体験であるかという問題だが、これは死後の世界の存在ということを巡る問題として興味深かった。立花は臨死体験こそ死後の世界の存在を否定するものだと考えるようになったと言っている。オウム真理教の世界は涅槃体験【死の世界の体験】から帰ってきたというところで宗教力を得ていたのだから、この立花の探索は興味深いものだった。
(2)
立花はその晩年というか、癌で自分なりに死を意識せざるを得ない時期になって、自分たちがきた中で何を後代に残したいかと考えるようになっていたと思われる。自分も時々そんなことを考えることがある。僕はもう子供は通りこして孫たちにいうことを考えるが、僕の場合は1960年代の権力との闘争ということになる。それで1960年代の思想経験を遺言として残そうという栗本慎一郎の呼びかけをもあって『流砂』を出している。立花はこの『立花隆 最後に伝えたいこと』の中で戦争の記憶を残したいとしている。だから、この本の第一部は『戦争の記憶』となっている。立花は敗戦期に5歳であったらしいから、直接的な戦争体験はそれほど残っているというわけではない、と推察される。僕は敗戦期に4歳であり、最初の記憶は四日市市の空襲であるが、それほど多くの記憶が残っているわけではない。これから類推すれば彼も直接体験として記憶が多く残っているわけではないと考えられる。彼は2歳ころから北京にいて引き揚げ体験があるから、僕が想像する以上の体験があるのかもしれないにしても。
彼が戦争の問題にこだわるのは戦後の戦争の追体験と言ったところが多いのだろうが、彼がこの戦争の記憶を残したいとする動機は戦後の最大の思想問題が戦争だというところにあるのだと思う。これは納得の行くとことであり、戦争をどう考え、それにどう対応するかは戦後の、そして現在の最大の問題であるというのは確かなことだと考えられるからだ。僕が時折、孫たちに伝えたいと思い、伝わるかなと懸念するのは僕が考えて来た戦争についての考えであるからだ。僕は自分が戦争について考えてきたこと、いうなら戦争についての思想をということを立花なら戦争の記憶というのであるが、それは分かる。何故なら、戦争の記憶という時、それは戦争の恐ろしさについて伝えたいと願った立花の意識そのものであると思われるからだ。「被爆者なき時代」と題された長崎大学での講演は彼の父親とのつながりや、若き日に「原水爆禁止運動」に関わった体験があるのだ、と思う。彼はここで被爆者なき時代に戦争をどう伝えていくかの危惧をあらわしているのだが、これは戦争体験者がいなくなる時代の危惧と言ってもいい。
かつて戦争体験者が政府の中枢にいる間は戦争のことは大丈夫だし、議論も要らないが、戦争体験者がいなくなり、政府の中枢が非体験者で占められるときは危ないと言ったのは田中角栄であるが、その状況を僕らは見て来たように思う。それを僕らはつぶさに感じて来たし、特に安倍政権にそれを感じて来たと言える。政権の中枢を占める人たちのイデオロギーというよりは戦争体験の有無の方が、戦争についての事柄について問題がでてくる。だが、戦争体験の有無は時間の問題であって、体験者がいなくなっていくのは避けられない。こういう危惧を僕らはこの間、抱きつけてきたのであるが、このことは立花にもあったのだろうと思う。憲法闘争(改憲に反対する闘争)をやっていて、つくづくと思ったことは戦後憲法、特に9条が守られてきたのは戦争体験者の「あんな戦争はいやだという」意識であり、その存在だった。反改憲運動はそれに生かされていただけであるという事だった。運動を意識的に展開しようとした主体者が機能したことはないのだということだった。立花は原水禁運動でつぶさにそれを知ったと思う。戦争体験を生かし、それを継承することは様々の形をとつた運動としてあるが、その現在は敗北的にある。この問題は運動を考えるうえで重大であるが、これについて立花はこう述べている。長い人生で学ぶべき事として「●有効性をもとめすぎてはいけない●運動なんて99・9%は負け戦●あきらめずに負け続ける●継続こそが力」と。そうして、それでもあきらめないで自分の意思を持ちつづけることが大事と言っている。僕は運動者ではない立花がこう述べている箇所に出会っておどろいた。そして立花の若い日の原水禁運動がかなり強いインパクトを彼に残して存続していたのだと思った。彼は運動を従来の形態ではない形で継続してきたのだと言えるのでもあるが。
(3)
立花は1959年(1960年安保闘争)の前年に原水禁運動に関わり、ヨーロッパまで出かけている。彼は1960年の安保闘争の最終局面(6月15日前後)はその関係でフランスにいたという。安保闘争後の原水禁運動は続くが、ここで左翼の問題が浮上する。左翼というのは伝統的左翼であり、共産党や社会党という事になる。ソ連の核実験をめぐって核実験に反対する運動は分裂し、安保闘争の共産党批判と重なって左翼の世界の旧左翼と新左翼の分裂が進行する。これはそれの核実験は容認するとういう立場がソ連の核兵器は容認するという事になり、更にはソ連の戦争は容認するということになっていったし、それに戦争観の問題にも発展して行った。あらゆる核実験に反対することはあらゆる核兵器に反対するという立場、さらにはあらゆる戦争に反対するという立場にもなるからである。原水禁運動、つまり核兵器の廃絶運動は左翼の分裂を生む源流のようなものだったが、そこで伝統的左翼に対立する新左翼、あるいは独立左翼の運動を誕生させる契機のひとつになった。立花は原水禁運動には積極的だが、その後の運動や左翼には加わらなかった。同世代の僕にはこの辺は非常に興味深いところだった。僕らは伝統的左翼から決別して新左翼、あるいは独立左翼の確立に向かったのだから。立花の発言に触発されてあの時代のことを想起するとき、いろいろの事が可能性も含めて考えられるからでもある。
彼は原水禁運動で派遣されたヨーロッパで親ソ連系も原水禁運動と共に反ソ連系の原水禁運動(自由主義的原水禁運動)にも接し、左翼的な日本の原水禁運動には距離を取った。彼は日本共産党研究などもするのだが、伝統的左翼だけでなく、新左翼とも距離を持った。そして左翼についてはこのように評している。これは日本の学生運動の破綻として述べられている。「●過激化(暴力化・殺し合い)●イデオロギー過多●安易に投げ出す」を指摘している。この批判というか評は当たってはいるが、ベトナム反戦闘争や全共闘運動の面の評価が足りないと思う。彼の言う否定的面を含みながらも新左翼や独立左翼は非戦の運動としては歴史に残る展開を果たしたのだからである。だが、この立場な評には反発を感じるというよりは外部的な視線として受け止めたいと思うし、独立左翼の非戦の運動の反省としたいと、思う。
日本で戦争の恐怖を伝え、戦争に反対する運動は戦争体験を戦後に継続する運動であり、様々な形態と運動を形成した。原水禁運動も安保闘争もそのひとつであるが、これは大きくは非戦、あるいは反戦の運動と言える。政治的には憲法とりわけ9条の擁護という形もあった。その運動には左翼が主導的に関与した。これは敗戦期に天皇制を含めて戦争期の蛮行と強権的な振る舞いに対する批判というものをなし得る部分が左翼にしかなかったからである、これは渡邊恒雄が戦後の初めに共産党に参加したことによくあらわれている、戦後の文化人や知識人には左翼(共産党的なもの)の影響が強く、その呪縛が長く続いた。これは戦後の非戦の運動が左翼的な影響(呪縛)を受けたことだが、立花は原水禁運動の中でそこからの脱出を意識せざるを得ない経験をした、僕らは1960年安保闘争でそれを経験した。マルクス主義からの脱却という事でいいわけだが、立花はそれを意識しなければならないところに立った。マルクス主義から脱した左翼的立場の確立が非戦運動の継続のために必要である。それが、僕の立場だったのだが、立花はこれとは違う立場にあったことがうかがえるが、戦争の記憶を保持し、戦争の動きに抗する運動を考え続けてきたことは分かった。立花が戦争の記憶にこだわり続け、それを後の世代に伝えたいと願ったことは、戦後の最も大きな思想の問題として戦争の問題があることをあらためて確認させることだった。この本の巻末にある保阪正康の解説はまた、それをよく伝えてくれる。この解説も一読をすすめたいものだ。
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