有栖川宮熾仁親王と上田世祢

有栖川宮熾仁親王と上田世祢の逢瀬《おうせ》について記しました。しかしなぜ、後の皇位継承順位第一位の有栖川宮熾仁親王が田舎娘の「世祢」を選んだか、疑問を持たれるでしょう。その縁はもちろんこの時代には亡くなっておられるものの、中村孝道を通しての縁でした。

明治元年一○月二三日に有栖川宮熾仁親王は東征大総督を辞任し、一一月二日に錦旗節刀を奉還し、賜暇《しか》を奏請します。錦旗とは天皇旗といい、禁門の変に旭形亀太郎が孝明天皇から賜った、あるいは預かったもの。トコトン殺れ節の「宮さん宮さん、お馬の前でひらひらするのはなんじゃいな」の「ひらひらするの」は熾仁親王が掲げた錦の御旗・天皇旗を指すが、その旗は祇園《ぎおん》で造らせた偽物であり、本当の錦旗は、旭形亀太郎が預かっていた。旭形亀太郎は孝明天皇の側近。熾仁親王は、仁孝天皇の猶子《ゆうし》〈他人の子供を契約により自分の子供として親子関係を成立させたその子供。明治以前に存在〉であり、和宮親子内親王は、仁孝天皇の皇女。熾仁親王と和宮は兄妹のような関係に当たります。

八木清之助は、和宮家、有栖川宮家に筆の行商などを通し出入りし、勤めたであろう勤王の志士で、王仁三郎聖師の冠句の師 度変窟烏峰宗匠《どへんくつうほうそうしょう》、そして聖師の恋人、八木弁の父。清之助が熾仁親王と上田世祢を結んだのかもしれません。しかし二人の出会いについては、王仁三郎聖師が示している。

<引用開始>

うのさん(上田宇能。聖師の祖母)のお父さんが中村孝道である。王仁は十三歳の時から言霊学《ことたまがく》をお祖母さんからならっている。大石凝《おおいしごり》先生に会ったのは明治三十五年で、その言霊学を習ったが基礎があったから判ったのである。大石凝先生は中村孝道の弟子である(自伝自画には明治三十二年四月とあり)。

中村孝道は有栖川宮家の侍医であった。それで母が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになったのである。(昭和十八年)(「王仁と言霊学」『新月の光下巻』)

<引用終了>

中村孝道とは、文化・文政の頃の言霊学者であって、京都で産霊舎《むすびのや》を称し、門弟多数を抱えていた。聖師の祖母、旧姓中村宇能の父とされている。

●中村孝道《たかみち》の経歴とは

出口王仁三郎聖師の言霊学は、大石凝眞素美《おおいしごりますみ》(図七)の影響はあったものの、大本言霊学と大日本言霊学の二本立て(用・体)であり、前者は山口志道『水穂伝』をベースとし、後者は祖母・宇能の父、言霊学中興の祖、中村孝道から伝わった「言霊学」としていた。大石凝眞素美は中村孝道の孫弟子。以下『古神道の本』より引用します。

山口志道など多くの縁者が五十音図に依拠したのに対し孝道の言霊学では五十音に濁音・半濁音を加えた七十五声を曼荼羅《まんだら》のように配列した「ますみの鏡」がその根幹に据えられます。これは言霊の曼荼羅であり、最下段のア音がもっとも重い音で、最上段のカ行がもっとも軽い音とされる。中心には「す」が置かれ、この図に示される音の階層秩序は、同時にあらゆる存在の階層秩序とされ、そこからネオプラトニズム的な自然秩序が誘導されていくのである。

また孝道は、七十五声の音を形象化した「水茎文字」の伝、太占天之目止木《ふとまにあめのめとき》などを口伝、伝書などといった形で弟子たちに伝えました『古神道の本』学研。

中村孝道の言霊学は中心に「す」を置き、五十音をたとえば「さそすせし、たとつてち」と置くなど聖師の言霊学とそのあたりは一致しています。

私は、王仁三郎聖師が有栖川宮熾仁の落胤であったという真実性をさらに確認するために、聖師の「中村孝道は有栖川宮家の侍医だった」という言葉に注目しています。聖師の曾祖父が有栖川宮熾仁親王の侍医であれば、聖師の母、上田世祢と熾仁親王の密会というのは、自然だからです。まして熾仁親王の母可那は亀岡市佐伯の出身でしたから、曽我部町宮垣内はほぼ同郷隣町であり、熾仁親王はよく母の里に馬で出入りしていたと思う。

●中村孝道の弟子、鎌田昌言《かまたまさこと》は有栖川宮家の侍医だった!

さて鎌田昌言という人がいる。中村和裕《かずひろ》「幻の言霊学者 中村孝道と言霊七十五声派」『古神道の神秘』別冊歴史読本特別増刊の記載を一部援用します。ひらがな部分の原文はカタカナです。

中村和裕氏は、孝道から王仁三郎までの近世言霊学の系譜を正しく再建するには、嘉永元年に成立した、前記、鎌田昌言の『言霊由来』が必要であると述べています。鎌田昌言は『言霊由来』の中で、舎主中村主計《かずえ》(孝道)先生は、もと建仁寺町通四条所下る所の両替屋なりしか、遊蕩《ゆうとう》にて二十四歳の時、身上没却。せんかたなしに按摩《あんま》をもって糊口《ここう》せられぬ。それにより宇氏(宇津木昆台・古医法の大成者)の傷寒論の講釈を聴かれたり。いつくのことにか、内所を迎えられしに、この内所も按摩をする人にて、夫婦ともに按摩をもって業とし、室町通り三条上る所東側に、中村主計としておられたり。以下、中村和裕氏の文章の骨子を引用します。私自身のことを考えても、出口恒の生年は1957年、王仁三郎は1870年生まれ。王仁三郎は私の曽祖父ですから三世代差で87年の差です。王仁三郎の曽祖父が中村孝道,生年の差は83歳。このことを考えると後述の中村孝道の生年が一七八七年という推測は妥当かなと思います。有栖川家、中村家,上田家というのは密接な糸でつながっていたのでょうね。

中村氏は中村孝道を天明七年(一七八七)頃の生まれと推測しています。有栖川宮熾仁親王は天保六年(一八三五)の生まれ。

中村孝道は、文政三年(一八二〇)には、まとまった最初の著作『言霊秘伝』を著しました。一八一八年頃、京都から旅に出ています。孝道は言霊の秘奥を知るためとして国生み神話の残滓《ざんし》を探索しつつ、淡路島や中国路を旅したようです。出雲へ下り、千家国造家の俊信《としざね》(鈴門)や北島主膳と会見したのもこの折りのこと。

『言霊由来』によると、出雲からの帰途、孝道は竜野に「言霊塚」を建立しています。瓦一枚に「三声の言霊」を書いたものを七十五枚埋めたとあります。この地には、圓尾屋の後援を得て、言霊学の社中が他に先駆けて形成されました。

帰京後、私塾・産霊舎《むすびのや》を旗揚げしたのは、文政六年(一八二三)ころの両替町二条下る東側です。按摩を生業《なりわい》としていた時代に「傷寒論」を受講していた関係で面識のあった宇津木昆台の経済的後援を得て、「産霊舎」の扁額《へんがく》を認めたのは、望月幸智《こうち》(内記)でした。

産霊舎には、中村忠次(掃部《かもん》)をはじめ、望月の長男・直方《なおかた》、次男登、医師鎌田昌長・昌言父子など門人二百人ほどを数え、教勢は北陸・姫路・大坂・江戸等へ拡大し、入門誓詞《せいし》や規則、門人張『産霊舎姓名録《むすびのやしょうみょうろく》』の整備なども行われ、文政年間には一世を風靡《ふうび》するに至ります。

これを裏付けるように、上洛しての修学案内書ともいうべき『平安人物誌』文政五年七月版と文政十三年十月版には、「言霊を伝ふ」として孝道の名前が記されています。

しかし昆台との言霊学伝授を巡る、あつれきや妻との離別などもあって、孝道は新天地を江戸に求めて天保二年(一八三一)九月に下行、四谷鮫ヶ橋に産霊舎を設けています。文政年間には小石川に産霊舎があった。天保五年九月、主著、「言霊或門《ことだまわくもん》が成稿されたのは、この四谷鮫ヶ島の産霊舎においてでした。江戸では神谷と満田が「助講」として下行し、その布教に当たっています(引用終了)。

さて、鎌田昌言の『言霊由来』の冒頭に「舎主中村主計先生は」とあるように、鎌田氏は出口聖師の祖母宇能の父、中村孝道の弟子でした。江戸時代は、公家は公家諸法度などの規則にしばられ、幕府は隠密をはりめぐらしていました。また朝廷は貧しく喘《あえ》いでいました。力士の旭形亀太郎が公家や武士の家に自由に出入りしていたように、両替商から按摩師に落ちぶれた中村孝道といえども、宮家に仕える余地はあったのです。しかも当時は一世を風靡する学者で、どこにも出入りできた。世間の情勢に明るい知恵者の孝道は、有栖川宮家でも重宝されたはずです。侍医だけでなく、隠密のような役割もあったのかもしません。

鎌田昌言は、その文脈から見て、中村孝道にあまり好意的でなかったような印象を受けました。ただ私が注目したのは彼の経歴です。鎌田昌言は中村和裕氏の説明では、有栖川宮の侍医を勤めた人物で『平安人物誌』によると「書を能くした」とあります。念のため「時代総合検索システム」で「鎌田昌言」で調べると次のような経歴が出てきました。

……鎌田昌言(~安政六年)医家。名は廉吉、号は苟完、京都の人、三条東洞院角に住し有栖川宮の待医を、つとめ、業余書を能くした。安政六年七月十九日没、年六十二。出雲路橋西詰明光寺墓地に葬る。法号不退院浄光(文政十三書(漢)天保九 医家再出書(漢)嘉永五医家)

言霊学の系譜に属した、医者、鎌田昌言が有栖川宮家の侍医であるということは、当時は、師匠から弟子へ職業などが伝えられた時代だったから、中村孝道が、一時的かもしれませんが有栖川宮家の侍医をしていた可能性が非常に高くなったと思います。実際、中村孝道は、古医法などの研鑽をしていました。有栖川宮熾仁親王が生まれた時は、中村孝道は、四十七歳ぐらいで、侍医だったのは、熾仁親王の父、幟仁親王の時代かもしれません。

仮に侍医ではなかったとしても、有栖川宮家の侍医、鎌田昌言は師匠を宮家に紹介したでしょうから、中村孝道と有栖川宮家に接点があったことは確実で、その縁で、「それで母が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになった」のでしょう。

では中村孝道はどこの生まれでしょうか。情報は混乱しているようですが、王仁三郎はその著『大本言霊学火の巻』に明記している。

大日本(だいにほん)言霊学(ことたまがく)を初(はじ)めて唱導(しょうどう)したる中村(なかむら)孝道(こうどう)氏(し)は

、丹波(たんば)八木村(やぎむら)の産(うま)れなり。

2006年に八木町は王仁三郎の青春の故郷、園部町などと合併して南丹市となるが 、南丹市は亀岡市と隣接している。亀岡の隣の市なので穴太宮垣内から決して遠くはない。

王仁三郎や可那の生誕地、中村孝道の生誕地、亀岡と隣接している京都市の有栖川宮家も決して行き来が不可能な距離ではない。

●七ヶ月児と思われた聖師

さて、上田世祢の祖父、中村孝道の縁で上田世祢が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになったことがわかりました。

聖師の弟、豊受大神を祭る京丹後市峰山の比沼麻奈為《ひぬまない》神社の神主を三十年ほどつとめていた上田幸吉氏の証言によれば、「母から聞いた話やと、お婆さん(うの)の弟が伏見に舟宿しとって、芸者を嫁にしていた。だから自由になる姪を貸して欲しくて、伏見に呼んだのや。母は末っ子やからどこに嫁にいってもよかった。養女にもらうつもりやったのや。ところが宮さんのお手がついて、つわりになってどうにもならんから、しぶしぶ帰ってきて、婿(明治三年一月十六日入籍)もろた。母が祖母に打ち明けると祖母は「こんな結構なことはない」と言うてとても喜んだ。だから聖師さんが生まれると二代続いた吉松の名を廃《すた》れて、嬉しいから喜三郎とつけた。二、三ヶ月早く生まれたが、父は気がつかなんだ」。聖師が七ヶ月児と思われていた証言です。

前章でご紹介した老婆の書いた「調査団宛の手紙」の冒頭を再読してみましょう。書いた老婆の指摘する明治初年の年代は、明治二年の一月一八日から二月三日、行程を考えると、一月二十日頃に暗殺されたはず。母禮子の文です、

<引用開始>

明治政府にとり、和宮は生かしておくには危険すぎる女性だった。つねに天皇と皇女和宮は同じ場所にいてはいけない。天皇が江戸にいるときは、和宮は原則、京都にいなければならない。だから天皇は、好きな京都へ行くことはできない。……でも和宮を暗殺できれば、それが一番憂いがない。

二月を一六日 すでに朝議は東京奠都に決していたが、天皇の再度東幸について、有栖川宮熾仁親王に天皇はお留守取締りを命じられます。岩倉具視らによる和宮暗殺の情報は、遅滞なく熾仁親王の知るところとなったでしょう。そして二月二一日、『日記』に初めて「調馬之事」の記述があらわれ、熾仁親王は世祢と会うことになります。おそらく場所は伏見の船宿でしょう。

三月三日 来る四月十日までに(明治天皇に)寒月下向のことを沙汰される。

三月六日 参内し、東京下向を辞退する。

三月七日 天皇東幸を奏送する。

<引用終了>

熾仁親王は天皇の命令を拒否したのです。

私は当初、有栖川宮熾仁親王が東京行きを拒否したのは、明治天皇が大室寅之祐と知って、その偽の天皇にしたがうのが嫌さに拒否したのだと思いました。しかしよく考えると、熾仁親王は、孝明天皇暗殺にはまったく関与していないものの、明治維新総裁を引き受けた時点で、すべてのことは呑み込んでいたはずです。ここで東京行きを拒否するのは、男児としてあまりにも情けないと思います。「毒をくらわば皿まで」ではないですが、新革命政権とともに、新しい日本を立ち上げなければならないお立場であったでしょう。しかし、一月下旬に、愛する皇女和宮が岩倉具視たちの手で暗殺された、その背後には当然、大室寅之祐、明治天皇がいたと知るならば、熾仁親王は東京にいくつもりになるでしょうか。

七月二一日 父幟仁親王と連署し、宮名返上の上表を提出。ありえないことと思います。和宮の死が重ならなければ。

しかし東京行きを拒否する理由がもうひとつありました。上田世祢との逢瀬をしていたのだと思います熾仁親王は、家茂なきあと、和宮との婚姻を真剣に望んでいた。和宮なきあと結婚を望んだのは、出口王仁三郎の母、上田世祢とだった。

大本柏分苑

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