<信仰の堕落>

1917年神霊界より抜粋。(読売新聞社刊 出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間) <信仰の堕落>

キリスト教は、欧米各国5億5千万人の精神を支配する宗教である。過去2千年来の惰力で、人心の根底に深く浸透し、牢乎として抜くべからざる慨がある。今の西洋文明にはギリシャ、ロ-マの思想が加味されているが、キリスト教の影響は更に有力で、更に深遠である。法律、政治、風俗、習慣、文芸芸術、その他社会万般の事物、1つとして之と没交渉なる事は出来ない。近世に於ける国家と教会の関係は、薄らいだように見受けられるが、それでも帝王の即位式には、その王冠を誰が捧げるかと言えば、キリスト教の僧侶が行うではないか。

ラファエルの絵画、ダンテの神曲、ミルトンの失楽園などは、世界を動かすに足る美術文芸であるが、キリスト教の精神を会得せざる者には、充分理解、翫味する事が出来ない。また

何のための安息日か、クリスマスか、復活祭か、キリスト教を知らぬ者には、到底欧米の風俗習慣を理解する事は出来ない。やれ赤十字、宗教戦争、新旧2派の争い、キリスト教を知らぬ者には、欧米の歴史は何の事やら分らない。このキリスト教の本源は他でもないユダヤ教である。

イスラエル民族は、由来憐れむべき民族で、団結力の強固ならざる12士族より成り、分裂瓦解し、軍隊、法律は国の独立を保てず、その結果、神に縋って保護を求め、救済を願った。その惨状は実に目もあてられざるもので、随って宗教意識も非常に強烈を極めた。これがユダヤ教の出来た根本理由である。当時ユダヤ民族は、多神教のバビロン、エジプト、ギリシャ等に取り囲まれて居た。多神教徒は種々雑多の神々に奉事する結果、その信仰は動揺不安定に流れ、一心不乱の堅固なる信仰に入る事が出来ない。かかる周囲の状態の下、モ-ゼがシナイ山頂でエホバの神から1神教的の訓戒を受け、之をその同族に伝えたのは、民族自衛の点から極めて必要な事であったに相違ない。この信仰は周囲の圧迫が激烈なるにつれて、益々強烈に赴いた。神の降した戒律が峻刻を極めたもので、他面に於て信仰を強烈ならしめ大に力となった。その戒律中には、「汝我面前に、我の他何物をも神とすべからず」

「汝、自己の為に何の偶像をも刻むべからず」「上は天にあるもの、下は地にあるもの、地の下の水の中にあるもの、何の形状をも作るべからず。之を拝むべからず。之に使うべからず。われエホバ、汝の神は嫉む神なれば、我をにくむものに向いては、父の罪を児にむくいて3,4代に及ぼし、我を愛し我が戒を守る者には、恵みを施して10代に至らんなり」

一寸考えれば、中々面白い。真の神は宇宙に只一柱より他にないという一面の真理だけは、よく表われて居る。モ-ゼは、独りこの戒めをその同族に示したばかりでなく、世界人類一般に示したものの様である。しかし茲に出た「神諭」は全宇宙主宰の神示としては、偏狭に傾いて居るように見受けられる。

エホバと唱える名称は、いかなる神を指すのか。外国の神のように思って、よそ事に聞き流すもあろうが、根本の神、宇宙の本体という意義である。日本民族が、太古に於いて天御中主神とたたえた神を指すに外ならぬので、極めて大切な国祖である事が判る。ただこの神徳の説き方が、甚だ人為的で不備偏狭を免れぬという欠点があるのである。

我が天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のことを、アブラハムも、モーゼも、其他すべてのイスラエル人も、エホバと崇め唱えたらしいが、天御中主神は全霊界統治の神であると同時に、全現界統治の神である。独りイスラエル民族が専有すべき神でなく、実に又、我日本統治の神であり、各個人の保護の神である。かの神の降したと称する戒律は、よしや人為的、偏狭不備の臭味を脱せぬにしても、其裡には、幾分神意の伏在するものが無いではない。吾々とても、単に異邦の事、シナイ山嶺の事と聞き流す訳には行かない。神の誠の声の一部が、幾分吾々の耳底にも響く感がするのである。

わが古事記には、宇宙開闢の第一の神様として、天御中主神の御名を出してあるが、其広大無辺の神徳、その全智全能の神性をば、ごうも録して無いから、誰一人として此神の明瞭なる観念を有たなかった。尤も此神の神徳は余りに大きく、到底筆舌を以て言い尽し得ぬものであるから、神典にも、単に御名を称えたに止めたのであろう。わざと書かぬのでなく、書き得なかったのである。

天御中主神の神徳は、空間的に観れば広大無辺である。時間的に観れば永劫不滅である。其神性は不変不易であると共に、其神業は千変万化して窮極がない。其まします所は、極めて近くして、又極めて遠く、とても人心小智の窺知すべき限りでない。天御中主神は、第一着手として、理想世界を造営せらるるが為に、第二位の神となって顕現された。これが霊系の祖神高皇産霊神(たかみむすびのかみ)である。この理想世界は即ち神霊界で、無論凡眼の観る能わざる所、凡智の察する能わざる所である。ただ霊眼、霊智を以て此にのぞめば、天分に応じて程度の大小高下はあるが、其一端を窺知せしめられる。次に天御中主神は、第三位の神となって顕現し、物質世界を造営された。これが体系の祖神神皇産霊神(かみむすびのかみ)である。創世記には、神を称するに単にエホバとのみ言わず、エロヒムの語を用いて居る。エロヒムは即ち神々という事で、根源は一神だが、幾種にも顕現するから、この複数の語が必要なのである。

天御中主神は、三種の顕現を以て、先ず其神徳を発揮されたが、無限の神徳は、無論このような簡単な事で顕わし切れるものでない。そこでこの大天地鎔造の神は、ミタマを分けて、随所随時に顕現して、次第に複雑完備の域に進ましめられたが、天照大御神の時に至って理想世界は完成した。次ぎに、此理想世界の姿を、地上に写し出すが為めに、天孫瓊々岐命(ににぎのみこと)を日本国に降して地上の主宰者の地位を確定し、同時に神子神孫を世界万国に降して、之を経営せしめられた。

往時の偏狭固陋な国学者などは、此日本ばかりが神国のように考えて居た。これはイスラエル民族どもが、自分ばかりが神の選民であると思惟し、エホバの神はイスラエルばかりを守護するように考えたのと同じような僻見と言はねばならぬ。そういう片贔負をする神様ならば、須らく世界の戸籍から除名して仕舞うべきである。古事記には『神皇産霊神(かみむすびのかみ)が少彦名命(すくなひこのみこと)を遣わして、常世の国を経営せしめた』と記載されて居るではないか。常世国は外国である。神の眼からは、日本もない、外国もない。只各国をして、其天賦の職責性能を発揮せしめんとせらるるのみである。此の世界経営の神業は今日とても依然として継続されて居る。天御中主神の神徳を知ろうと思えば、日本神代史の研究は勿論、ギリシャ、ローマの神話も、キリスト教、回教、バラモン教、道教、儒教も、西洋の諸学術も、悉く調べて見て、造化の宝蔵を敲いて見ねばならぬ。一人や十人では出来ない。一宗派、一専門の士では不足だ。霊智霊能あるもの、誠心誠意あるものの全部が、総懸りで取懸らねばならぬ問題である。それ丈努力討究しても、尚お僅に神の大業の百千万億分の一を想見する事しか出来ぬのである。

然るに、現代の日本国民の神霊についての知識及び信仰の程度は如何。神代史の知識は欠如し、天御中主神の神徳を知らぬ者の多きは勿論、第2流、第3流の神様さえさしおきて、種々雑多の低級な神々ばかり拝んで居るものが多い。これでは、日本は浅ましい迷信教国と言われても仕方がない。さもなければ、浅薄愚劣な無神論に堕して、半可通の新知識を振りまわして居る。

ギリシャの信仰なども、随分堕落して居た。ギリシャの神々は、森の中、山の上、谷や野原で、よく血を流して闘ったり、鎬を削って争ったりした様だが、敵を殺したり、欺いたりするという事は、神の尊厳を汚すもの、戦いに敗北して、敵に降参するに至っては言語道断である。神話と軍談を取違えて「ギリシャの神話は詩趣が饒多である」など誠に寝言である。

日本も余り大きな顔は出来ない。地方に行って見ると、よく稲荷の祠があり、狐が祭ってある。稲荷は「ミケツカミ」であり、三狐神だから此処に祭るでは、信仰の堕落の極点で、折角の宗教は道徳性を失い、却って不道徳の道具となる。赤飯をたいて、油揚をあげて、余計な鳥居をいくつも建てて、御利益の強要をする。相場師、投機商、山気のある商人は、よく羽田の穴守稲荷へ出掛ける。芸者、芸人の信心はすさまじいものだ。狐の魔術的保護により、客をたらかし、相手を騙すためだと云う。

稲荷の神は「飯成の神」という事で、宇迦之御魂神である。つまり豊受神で五穀の生育を司り、万民の食物の源を養う神であるから、「御膳津神」でもある。豊受神は造化第三位の神から遣わされた物質世界の神であり、天照大神は造化第二位の神から遣わされた理想世界の統治の神である。豊受神は物質世界の住民に食物を恵み、天照大神の神業を助ける。だからこの二柱の神は内外両宮に祭られ、万民の信仰の中心になって居る。

天御中主神はエホバであるが、その神徳は隠れて見えない。樹木ならば、地中に隠れた根の如きものである。この根はやがて地上に顕現し、第二位、第三位の神となる。第二位の神は即ち幹であり枝であるから、高皇産霊神の事を「高木の神」と云う。第三位の神は花であり実であるから、神皇産霊神の事を「ムスブ」と云う。第二位の神は理想を結んで之を天照大神に委ね、第三位の神は物質を結んで、之を豊受大神に託したのである。

汎神教というのは、物質的有形庶物を祭る宗教である。動物、植物、鉱物、山川、森林等を

そのまま神として祭る宗教である。かく「自然の個物」を崇拝すると、勢い肉世的、物質的に堕落する。かの偶像崇拝は「抽象的概念」を神として拝む。抽象的概念には形が無いから、之を現すに偶像を用いる。仁王、帝釈天、毘沙門天など皆抽象的概念の具象的表現である。

近代の科学に用うる名称とて、外形こそ異なれ、その真相に於ては敢て変りはない。エネルギー、引力、潜在意識など偶像ではないが、気の利いた偶像の代理である。かかるものは人間の作ったもので、一つの心理作用に外ならぬから、到底信仰につなぐ力はない。

吾々はどうあっても、この国民信仰の堕落を救わねばならぬ。健全なる信仰を復活せしめ、やがて世界の宗教統一を実現すべき使命は、どうあっても、我日本に在らねばならぬ。世の有識者の奮起を望む。

大本柏分苑

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