「大谷さんなら応援したい」あるタレントの発言から

オリンピックについてはあれこれの事が言われている。テレビでも新聞でもオリンピックに関する報道や記事を見かけない日はない。どんな報道や記事をとりあげてもいいのだが、これらをまとめていえばこんなに歓迎されないオリンピックは史上はじめてだということだろう。人々の冷ややかな視線の向けられたオリンピックなんてかつてなかったことである。そして、巷では大会を前にいろいろの規制がはじまり、何万人の警備体制が敷かれるとのことである。テレビでその報道を聞きながらやはり驚いた。何のためにこんな大げさな警備を必要とするのだろうか。テロ防止だって(?) 誰がテロをするというのか。普通の神経では考えられないことである、

いろいろと言われるがオリンピック(パラリンピックも含めて)はスポーツの祭典であり、祝祭であって、多くの人が歓迎はしても妨害などはしない。それが最低限のことである。近年はオリンピックを国威掲揚とやらに利用しようとすれ面々がいて、不快な気分にさせることが多くなってきているが、それらを織り込んでも、妨害などの意識は生じないものである。そういう意識が人々に出て来るとしたらよほどのことがある時だ。それはオリンピックが祭典(祝祭)という根本条件を失っているときだ。祭典(祝祭)というのは難しく考える必要のないことであり、単純にいえば人のスポーツを楽しもうという気持ちである。そういう刻を持とうと気持ちである。あるテレビ番組で大谷翔平の活躍をみて、これなら応援をしたい、オリンピックはどうもそうなれないところがあるのだけれど、と言っていた。僕は日本のオリンピックに参加するアストリート達を応援したい気持ちを持ってきたが、どうもそうなれない戸惑いのようなものがある。これは今、開かれようとするオリンピックに祭典として参加する気分になれないのと同じである。どのような理由からであれ、今のオリンピックは祭典(祝祭)ということを失ったのであり、人々のオリンピックに対する気持ちを変えたのだ。

政府筋や大会主催者は始まれば人々の気持ちが変わるだろうと、言っているがいい気なものだというほかない。競技がはじまれば何らかの形で選手を応援し、競技をみるということはあるだろうが、これは素朴に人が祭典として歓迎するという事は違うのである。こういう、人々のこころの動きを日本の政治家たちは見ることができない。これはオリンピックにはじまったことでなく、そこでその欠陥が映し出されてというべきかもしれない。僕らはそういう日本の政治の姿をこのドタバタの中で見たといえるのだろう。

コロナ禍を拡大するだけであるという危惧は、危惧にとどまらないだろうが、こういうオリンピックなんてやめればいいのだ。今からでも遅くない、原隊に帰れということで中断された軍事行動だってあった。やめるはいつからでもよい。そういう決断のできる政治家は日本にはいないのかもしれないが、である。

大本柏分苑

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