憲法を百年生かす (2-1)
安倍の改憲提起の遺したもの
(1)
コロナ禍では様々なことが起きる。長期政権を誇っていた安倍晋三がコロナ問題に無為無策で対応(政治的対処)ができずに政権を投げ出したこともその一つだった。今度は元首相で東京五輪の大会実行委員長であった森喜朗が女性蔑視発言で辞任に追い込まれた。これはオリンピック実行委員会を独裁(独善的)に支配していたことが露呈し、その周辺や国民から批判があがったことでもある。大会実行委員長を橋本聖子に変え、IOCの理事に女性を増やすことで一見落着にしたいという思惑を超えて、日本社会における女性差別(ジエンダー不平等)の問題とその変革を求まる声がいろいろの領域に広がっている。これは簡単に収まらないだろう.静かであってもそれは確実に広がり浸透して行くと思う。
コロナ問題で唐突に退陣をした安倍晋三はまた憲法改正の提起者であった。戦後の体制党であった自民党は党肯として憲法改正(自主憲法の制定)を掲げてきたが、自己の政治的課題としてこれに取り組んだ首相は少なかった。
戦後の政治権力を担当してきた自民党(1955年に保守合同で結成された政党)は党肯として憲法改正(自主憲法の制定)を掲げてきたが、本当に憲法改正を提起し、その動きを見せたのは自民党の初代総裁だった鳩山一郎と1960年安保改定の推進者だった岸信介(安倍晋三の祖父)くらいである。その意味では彼等は保守党の、また体制的な政治家としては稀な存在だったのだ。鳩山一郎は保守合同後の最初の選挙に憲法改正を掲げた選挙で敗れ(三分の一の壁を超えられず)、その野望は頓挫した。岸信介は安保改定を推進したが、反対闘争の高揚の中で退陣念した。
この安倍晋三は第一次安倍政権と第二次安倍政権と政権を担ったのだが、憲法改正を中心的な政治課題としてきた、特殊な政権であった。安倍政権の憲法改正の動きはかなり屈折したのであるが、これに対抗する動きも屈折したものだった。それは一言で言えば、憲法改正に反対する運動が運動らしい展開をやれなかった、ということだった。第一次安倍政権が憲法改正を正面に掲げての参院選挙では反対する運動は力を発揮し、安倍を政権からの退陣に追いやった。けれども第二次安倍政権下での憲法改正の動きに対抗する運動は形をなすことも難しかった。第二次安倍政権では憲法改正を正面にすえるのではなく、アベノミクスという経済政策を前面にだすという迂回作戦があった。また、安倍は従来の自民党が掲げてきた憲法改正(中心は憲法九条、特にその第二項の交戦権禁止や戦力非保持の改正)から、憲法に自衛隊の明記に変更したこともあった。これらは、憲法をめぐる論議を難しくさせたと言える。もちろん、この背後には戦後の憲法を存在させてきた歴史(世界)の変化があったことは言うまでもない。
僕は憲法改正に対抗する運動として「9条改憲阻止の会」を創りそれを展開してきた。この運動は第一次安倍政権時の改憲の動きにはそれなりの展開をしたといえる。ただ、態二次安倍政権の改憲の動きに僕らは運動を組織しえなかった。そういう他ない事態に直面したといえる。これにはいくつかの事情をあげることもできる。その一つは第一次安倍政権から第二次安倍政権の間には政権交代もあったのだが、その間に、「3・11」(東日本大震災)があり、それが原発震災を伴っていたこともあって、僕らが原発問題に対応することを迫られたことがある。「9条改憲阻止の会」は脱原発の運動のほうに力をシフトした。具体的にいえば経産省前に脱原発テントを創出し闘った。経産省の一隅に立てられたテントは五年前に強制撤去されたが、座り込み闘争は現在も続いている。ここに運動の主力をシフトしたことで安倍政権の改憲に対する運動の力を注げなかったたことは否定することができない。
ただ、安倍政権の提示した改憲に対して僕らが有効に運動を組織しえなかったことはこうしたことだけに理由を求めることもできない。こういう理由は副次的なことと言い切ってもよく、僕らが反改憲の運動を組織できなかったことにはもっと別な理由があるように思う。この点は今後にも関係することであるから、僕らはそれを明瞭にしておかなければならないように思う。安倍の後を継いだ菅政権は安倍政治を継承するとうたったにしても、安倍と同じように憲法改正を提起はできないとおもわれる。菅は安倍のような改憲への意欲をもって持っていないし、その担当能力もないと思える。でも、菅政権の後ではどうかわからない。僕らは今後も改憲の提起があることを考えておいて方がいいし、そのためには今回のことを総括しておいた方がいいと思う。
第二次安倍政権の改憲提起に対して有効に運動を阻止えなかった大きな理由として二つほどあげられると考えている。その一つは安倍の改憲提起の変化がある。それは改憲の提起の方法の変化であった。それは従来の憲法九条改正(特に第二項、交戦権の禁止や戦力非保持の改正)を避けて、自衛隊を憲法に明記するということであったが、これは議論を組織することを難しくした。自衛隊の憲法明記が意味することを改憲側が明瞭にしなかったこともあるが、こちらがそれを明瞭にすることも難しかった。
もう一つはこれに深く関わるが従来の改憲反対論(9条改憲の反対論)が衰退していることがある。もちろん、憲法九条の改憲に反対する国民的な戦争を否定する意識(非戦意識)が、改憲の動きを阻止する力になってきたことは疑いない。これはあらためて憲法九条が生きている基盤を僕らに確認させるものだった。ただ、戦後の憲法改正論反対論(平和憲法擁護論)の潮流、いうなら政治的な動きがその減衰傾向をはっきりさせたこともある。「9条改憲阻止の会」が第一次安倍政権の改憲の動きにはそれなりの対応力を持っていたのに、第二次安倍政権の改憲の動きにはそうではなかった。これは改憲反対の側、つまりは主体の側の憲法(九条も含めて)の思想(考え方)が問われたことでもあつた。改憲(体制派)と護憲【反体制派】の構図が崩れ、改憲に反対ならその論拠をより明瞭にすることが問われたのである。ある意味では自民党の憲法改正と反対に対する考えが不透明性を増した現象を指摘すればいいのかもしれない。こうした中で立憲という事も含めて憲法そのものをとらえ直そうとする動きが出てきたたこともあり、これは新しい事態であるといえる。憲法改正の動きに対して「憲法を守る」という反応ではなく、憲法を生かすことで対抗しょうといううごきである。憲法改正に対抗するという言葉を掲げなくても広範におきている民主主義の擁護という提起は広い意味での憲法改正の動きへの対抗とも見える。これらも含めて、安倍の憲法改正の提起とその対抗運動のことは将来、また、改憲問題が現れることも考えて、きちんと総括(反省も含めた対象化)をしておきたいことである。
(2)
今回の安倍の改憲提起と反改憲の動きは従来とは違う考えを生み出した。それはいろいろあるのだが、半藤一利などの提起もその一つだった。彼の歴史探索の仕事は憲法改正の動きを真っ向から批判する言動を生んできたが、これは保阪正康にもいえる。彼等はいつの間にか権力の憲法改正の動きに対抗していく重要な位置をしめるようになっていた。彼等の昭和史探究と戦争批判の言及はそのまま憲法改正の動きやその背後の歴史修正主義の批判になっていたといえる。
僕は先ほど指摘した「9条改憲阻止の会」の安倍改憲との闘いを反省的に振り返るときに、彼等の言動は参考になると思う。その意味で、彼等が憲法について触れた『憲法を百年生かす』は興味深い。半藤一利は今年の初めに亡くなったのであるが、追悼をこめて彼の著作を時折ひもといている。書店では彼の本がコーナーを占めているが、『昭和史』『幕末氏』『あの戦争と日本人』などである。彼の著作は戦後の重要な論客であった左翼史家の影が薄くなった後を埋める役割を果たしている。そう言っていいのではないか。
『憲法を百年生かす』は半藤と保阪の対談本であるが、憲法についての本の中で、読むべき数少ないものの一つであるといえる。僕は以前にそうした本の一つとして『憲法9条へのカタバシス』を取り上げたことがあるが、それに続くものと言えようか。
この本は第5話からなっている。第一話「日本国憲法70年』に思うこと、第二話 近代日本の軍事、第三話 戦後と軍事と自民党、 第四話 新憲法はいかにして生まれたか、 第五話九条を明日につなげるために、という構成になっている。結論めいたものを欲するのであれば、第四話と第五話を読めばいいし、そこから読み始めてもいい。それは分かりやすいともいえる。そういう読み方もあるが、また彼等の著作を併読して読むのもいいかも知れない。例えば、彼等の対談、『ナショナリズムの正体』(文春文庫 2017年刊)などを併せて読むといい。キーになるのは戦争と昭和史についての彼等の言及であるが、そこは憲法を考えるヒントが散見している。
この第一話の中で、面白いのは彼等が憲法に対する自己の立ち位置として改憲でも護憲でもなく、「憲法を百年生かそう」という立場だと語っていることである。従来、自民党が改憲論であれば、それに反対する立場は護憲という枠組みがあった。改憲が権力、あるいは体制支配の側に立つ立場の憲法への立ち位置であれば、反権力、反体制の立場に立つ部分は護憲を立つとされていた。この枠組みはイデオロギー的、政治的立場の枠組みだったのであるが、憲法に対する戦後の政治的な構図であったといえる。この護憲論は減衰しつつあるのだが、段々と力を失ってきている。彼等がその立ち位置として改憲でもなく、護憲でもなく、別の立ち位置を宣言しているのは、従来の護憲論が力、言うなら指南力をうしないつつあることと関係している。
「まず、護憲でも改憲でもありません。かねて半藤さんの持論である『憲法を百年生かそう』という立場です。その考えに深く賛同しています。一世紀を貫いたならば、この憲法は大変の重みを持ち、かつ日本国という国の、まごうかたなき骨格になると思うからです。」(保坂)。「だから守ろうとしないで、この憲法を、わたしはただして広めたい。護憲といっている人にも言ったことがあるんです。むしろ世界に広める運動をした方がいいのじゃないかと。すると、そんな理想を言っている場合じゃありません。とにかく守らなくてはいけないのです。なんて怒られてしまったのですがね。しかし、こちらから積極的に世界に広めていけば、この憲法の良さはかならず分かってもらえる。というのが、わたしの基本的立場なんです}(半藤)。
憲法を百年生かすというのはある意味では護憲ということに矛盾しないのであるが、なぜ、わざわざそれを「改憲でもなく、護憲でもなく」ということわりをいれ、こういう立場を強調したのであろうか。憲法を守るということと生かすことは矛盾しないし、生かすというのは守ることをより積極的に言っていることである。それなのに「憲法を生かす」というのか。
それは護憲論が政治的立場の強かったことに対して彼らが異議を持っているからであると思える。護憲論の歴史に対する不信の意識があるのだといえる。それは護憲論の政治的な立場への不信だと言っていい。
この場合に、政治的というのは二つの意味がある。そのひとつは改憲というのが体制や権力の側から提起されるときには、それは政治的に出て来るから、護憲(改憲に反対する)ということは政治的になる。この場合の政治的ということについて、保阪や半藤は否定していないのだと思う。
もう一つは憲法を理念として考えれば、その理念を価値として認めるのではなく、それは体制的な表現(憲法は体制や権力の存在根拠の理念、ブルジョワ憲法論)であるとする考えを根底に持ちながら、体制や権力が提起するから、それに反対する運動を政治的に利用するために政治的に改憲の立場に立つというときの政治的ということ。これに対して保阪や半藤は違和があるのだと思う。従来、左翼(マルクス主義に立つ左翼)は憲法(議会を含め)を体制的なものとしていた。権力の実態を隠すためのイチジクの葉のようなものであるという考えだ。
憲法を公的なもの、普遍的なものとしては認めてはいなかったのである。少し分かりにくいがかつて共産党は、また、新左翼も憲法をブルジョワ法として、体制的な理念であり、普遍的な理念としてみとめてはいなかった。ブルジョワ憲法といういいかたがあった。革命によってそれらは変えられるべきであり、現在の憲法を変えることを綱領的視座にしていた。それなのに、憲法を守るとか、護憲というときはその矛盾を隠す、その意味で政治的だったということがある。多分、保阪や半藤はこういう政治的なことを分かっていて、左翼の護憲派に警戒があり、「憲法を百年生かす」ということを立ち位置に掲げたのだと思う。これについて僕は概ね賛成であるが、これには二つほど注釈がいるかもしれないと思う。
憲法の理念を普遍的なものとして認めるとき、一つは日本国憲法の場合に天皇条項についての問題がある、僕はこの条項を憲法から削除すべきだと考えている、だから、この観点では僕は改憲派なのだが、これは現在の憲法の矛盾とした上で、憲法9条や他の条項をより優位的な事と考えれば、百年生かすという考えに同意できるということである。保阪や半藤と僕は天皇条項については違う考えにあるのだと思う。この点は注釈としておいて方がいいのかもしれない。
もう一つ、戦後、憲法を擁護する派の平和主義論、基本的人権主義論、民主主義論がある。平和と民主主義でもいいのかもしれない。これは憲法九条を反戦平和論で論拠づけ、前文を民主主義と理念化するところからでてくるが、戦後の左翼の反戦平和論と民主主義論は多分に曖昧な要素を残していたということがある。憲法9条を反戦平和条項と見る時に、それは通用しやすい理念だが、九条の理念化としては曖昧なところがある。
例えば、九条を理念化する平和主義は、かつての共産党の場合にはソ連圏(社会主義圏)平和勢力論(帝国主義の戦争に反対する平和勢力という規定)から出てきたものであり、特定の戦争(帝国主義戦争)の否定であっても、戦争(あらゆる戦争)を否定するという理念に立ってはいなかった。社会主義の戦争は肯定する立場だった。保阪はこれを非軍事憲法というが、非軍事とか非戦の憲法であるという立場ではなかったということを意味する。反戦平和というのは非戦とか非軍事という国家の方向を規定する理念としては曖昧さを持っていたのである。平和と戦争をしないという事の間にある違いを考えればいいといえる。
民主主義についていえば日本社会党は国民主権論ではなく国家主権論(民族とか共同体主権論)にあった。これは戦後民主主義が戦前の民本主義の継承のような曖昧さ持っていたことを意味する。国民主権という考えに立てない民主主義論の曖昧さと言っていい。憲法改正に対して護憲をいうとき、つまり憲法を守るというときに憲法に対する立ち位置は明瞭ではなかったのである。憲法の理念を普遍的で価値的なものとする立場ではなく、そこに曖昧さを遺し、その分だけ政治的であることへの不信が保阪や半藤にはあって。「憲法を百年生かす」という言葉になったのだと思う。
憲法問題にはじめて直面したというか、それに対したのは1960年の安保闘争の直後だった。かれこれ60年も前のことである。1962年の事であるが、当時、僕は中大の学生組織だった社会主義学生同盟(社学同)の「SECT6」と呼ばれるグループにいた。そこでこのグループは当然にも政府の改憲の動きに反対したのだが、同時に社会党や共産党の護憲論的立場にも疑念を呈していた。社会党や共産党は当時革新勢力と呼ばれていたが、1960年の安保闘争での振舞いから社学同にいた僕等からは批判的であり、その護憲論にも批判的だったのである。安保改定を推進して岸信介は憲法改正を実現するための憲法調査会(第一次憲法調査会)を組織し、憲法改正をめぐる議論をやっていた。この調査会の答申の最後に公聴会を開こうとしていて、僕らはそれに反対した。同時に、憲法問題が提起されたのである。護憲論をそのまま受け継ぐことには安保闘争や核実験反対運動と平和運動の問題もあって違和があった。国民の戦争に反対する意識や意志が護憲(9条擁護)になっていることと、政治党派(共産党や社会党の護憲論(平和憲法論)は同じではないし、明瞭に区別しなければいけないが、当時の僕らはそこを分けてみるだけの能力はなかった。だから、護憲論批判と言ってもあいまいなものだったのだが、政治党派の憲法擁護論を批判しようとしていた。この当時、改憲論でもなく、護憲論でもなく、戦後の憲法についての構図を超えようとする立ち位置を「SECT6」というグループは提起していたが、それがどういう立ち位置かを明瞭にしえないまま潰えてしまった。「SECT6」はもちろん「憲法生かす」という立場に立てなかったわけであるが、改憲論と護憲論の枠組みを超えようという問題意識は持っていたのであり、僕が憲法を考える場合にいつも記憶に残ってきたことだった。
「9条改憲阻止の会」を立ち上げた時は、かつての護憲論は力を減衰させつつあったから、この構図のことは強く意識はしなかったけれど、立ち位置のことはずっときになってきたのである。今なら、僕は当時の「SECT6」が護憲論を超えるという問題意識をもちながら、それが潰えて行った理由を明瞭にできる。「SECT6」も伝統的な革命論に支配されていて、憲法の理念の価値そのものを発見してはいなかったのである。非戦と自由(民主主義)の意味を明瞭にしえてなかったのである。反体制や反権力という時に、対置したプロレタリア革命の理念にはそれらは入ってはいなかったのである。プロレタリア革命、とりわけその政治革命はプロレタリア独裁の樹立であって、非戦も自由(民主主義)も理念としてはなかったのである。
憲法を理念という場合に憲法九条を反戦平和論という曖昧なものでなく、非戦(非軍事)論として規定できる。そして民主主義という前文の規定を国民主権論として明瞭にできる。これは非戦と自由と民主主義の憲法を、その憲法理念を価値あるものとして守りたいし、そのためにはそれを生かすというように考えたいと思う。体制や権力は改憲として、こうした理念を変えようとする、それに対しては、それを守るというのはいいが、守るというのはこうした理念が現実にあるように錯覚しかねない。そうではなく、この理念を現実化するということが大事であり、その時は、憲法を生かすと考えた方がいいのだと思う。もっと積極的にいうならば、非戦と自由(民主主義)は空虚で中身にないプロレタリア独裁論(伝統的な社会主義革命論)に替わる現在の革命、あるいは革命の理念である、そしてそれは運動を通して現実化していくものであり、保阪や半藤が「生かす」ということはそれとかけ離れていないことといえる。
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