大地の母 第一巻 青春の詩 第2章 波濤の図

喜三郎、足も口も遅い方であった。歩き出しても、頭でっかちで重心がとれぬのか、よくころんだ。芋畑の畔の小溝にころげ落ちて目をまわし、父の介抱でやっと息を吹き返したこともある。

 物心ついた喜三郎は、長い期間、家族は全部で六人とばかり思いこんでいた。祖母・父・母・伯母・喜三郎・それに小さな爺さん……変わっているのはこの爺さん、いつも茶縞の着物をきて腰を曲げ、喜三郎の後へひょこひょこついてくる。家族の誰もが爺さんを相手にせず、また爺さんも語ろうともせぬ。好きでも嫌いでもなかったし、この影のような存在を不思議とも思わなかった。喜三郎には、そういうボーッとした一面があった。

 明治七(一八七四)年の松の内、初めての弟が生まれた。その皺くちゃの顔がこの世にあらわれた時、家族の誰もがぎょっとした。四歳になった喜三郎も、「この赤ちゃん、物言わぬ爺さんと同じ顔や」と思った。次男の名は、祖父・父と伝承した吉松の名の松の字をとり、吉はヨシとも読めるので、由松と命名された。

 五歳の年、喜三郎は驚風病(脳膜炎及びこれに類する症状をもつ病気)に見舞われ、重ねて脾肝の病いに侵された。腹ばかりふくれ、手足は針金のように細くなった。未申(西南)の方向に先祖が掘った久兵衛池の祟りだと易者は言った。家族は心配してあちこちの神社仏閣に祈祷を願ったが、病気は悪化するばかりで、なんの効験もなかった。

 蟇がよいと人がすすめた。父吉松(旧名梅吉)は山野をかけ廻って蟇がえるをつかまえ、鶏の笹身に似た白い肉を醤油でつけ焼きし、毎日一、二片ずつ食わせようとした。喜三郎が口にしかけると、爺さんが出てきて食うなと睨みつける。父母はごまかせても、爺さんはごまかせなかった。たいていは食った顔をして、すきを狙って雪隠に捨てた。

 ある夜、宇能は夢をみた。

「喜三に蛙など食わしたらどもならん。あれは神さんの御用する大事な身やでのう。若夫婦が産土さんを敬う道を忘れてくさるさけ、お気づけをいただかんなん。早う喜三を小幡神社に参らせや。よう若夫婦にも教えとくにゃぞ」

 亡夫吉松の声である。目ざめても、まだその声ははっきり耳に残った。

 明けやらぬ闇の中で、宇能は隣室の若夫婦を揺り起こした。話を聞くなり、世祢は痩せて軽くなった喜三郎を背におい、提燈を持つ夫と連れ立って小幡神社に詣でた。祈願の効あってか、その日を境に喜三郎の病気は快方に向かった。

 宇能はくり返し喜三郎に言った。

「産土さまを忘れんときなよ。神さまはいっつも喜三を見てなはる。大きゅうなって神さまの御用がでける日を待ってなはる……」

 夏の終わり頃であった。賀るは喜三郎を連れて、近所の斎藤庄兵衛宅へもらい風呂に出かけた。土間の唐臼で米を搗いていた吉松は、風呂上がりの喜三郎を見咎めた。

「なんちゅう顔さらしとる。鏡みてみい」

 喜三郎の顔は、昼間のいたずらで鼻のあたりを真っ黒にしたなりであった。賀るはもてあましたように言った。

「どないしても顔洗わせまへんのや。言い聞かせてやっとくれやす」

「喜三公、こっちへこい」

 吉松は喜三郎の肩をつかみ、こわい顔をした。

「こら、伯母さんのいうこと聞かなあかんやんか。なんで顔を洗わんのや言うてみい」

 それでも喜三郎は、泣きべそをかいて黙っている。二度聞いて、三度目には吉松の癇癪が爆発した。

「しぶとい餓鬼や。おい、なんで顔洗わんのじゃい」

 高声になった。父の癇癪のこわさを知っている喜三郎は、手で頭をかばいながら必死で叫んだ。

「人の睾丸洗うた湯で、わしの顔が洗えるかい」

 わっと泣き出した。吉松はうなって、世祢にいった。

「いっちゃら(一人前)ぬかしよる。義父さんが大物になる言うてなはったが、やっぱり応挙はんの七代目だけあるのう」

 宇能は泣きじゃくる喜三郎を裏の井戸に連れて行き、顔を洗ってやりながら、いとしげに囁いた。

「ほんまなら、人の汚したあとの湯へ入る身分やないのや。お前はただの子やないのやさけ」

 以後風呂は、宇能の主張で近所に特別に頼み、喜三郎だけ先に入れてもらうことになった。持って生まれた天性と祖母の時おり吹きこむ囁きが織りなして、喜三郎の幼い魂に自尊意識がしみこんでいく。

 上田家の古い破れた壁や襖には、祖母の叔父中村孝道の書き残した書などが貼ってある。喜三郎はせがんで、宇能に読んでもらった。金剛寺や穴太寺の碑や額などをじっとみつめている。和尚が出てくると、袂をつかんで歩き、その意味をしつこく聞いた。どこにでも文字さえあればあかず見つめ、だれかれとなく居あわす者に聞く癖があった。しかしこの村で文字を解する者は少なく、ほとんどの者が返答に窮した。

「大人に恥かかしよるで」と彼らは苦笑したが、まさかこの幼児に文字を理解する能力があるとは、誰も思わなかった。

 明治十(一八七七)年二月、西南戦争が始まった。連日新聞がその模様を伝えた。当時、新聞をとっている家は、村でも一、二軒しかない。戸長の斎藤庄兵衛は、役場から持ち帰った新聞を囲炉裏にあたりながら、しかめっ面で読んでいた。横から邏卒(巡査)がのぞきこみしきりに内容を問いかけるが、庄兵衛にも読めぬ字の方が多くさっぱり意味がつかめない。あきらめて新聞をおき、煙管をくわえた。と、もらい風呂に来ていた喜三郎が、新聞をくい入るように見つめる。いつものことなので、誰も意にかけない。邏卒が声を落とし、秘密めかして戸長にいった。

「ごく内緒のこっちゃけどのう、西郷はんとの戦いにどうも官軍の旗色がようない。だいぶ人減りがあるそうですで」

「ふうん、そうけ。官軍一万六千、賊は一万五千と昨日の新聞に出とったさけ、兵力はまあ、五分五分やろ。そこに人減りちゅうと……うん……内緒にせんなんちゅうことやのう。こら、危ないぞ」

 喜三郎が、大人の会話に口をはさんだ。

「そんなもん何が内緒やろかい。ちゃんとこの新聞に出とるもん」

「なんやて?……」と、邏卒は言い、相手が涎掛けをはずして間もない六歳の小童と知ると、嗤い出した。だが庄兵衛は、臆せぬ喜三郎の切れ長の眼に出会うと、真顔になった。

「待てよ、ほんな喜三公、これなんちゅうて読むねん」と、四号活字の見出しを示す。

 喜三郎はすらすらと読む。

「天下の嶮田原坂の激戦開始、官軍容易に敵塁を奪取し得ず……」

「ほんまにそんなこと書いたるのけ」と、邏卒が疑わしげに庄兵衛の顔を見る。

「どうやらそんなふうに書いたるらしいのう。喜三や、その先を読んでみい」

 続けて読ませながら、大人二人はしゅんとなった。

「どこで字習うたか知らんけど、こら、お見それ申したわい」と、邏卒は脱帽し、「けど、まさか京までは攻め寄せてはこんやろ。こっちには錦のみ旗と親王さまがついてはるさけのう」と、胸を張った。

「親王さま言うたら……この人?」

 さっきから見つめていた新聞の肖像画を、喜三郎は指さす。

「そうや、貫祿あるやろが。その下の字、何ちゅうて書いたる?」

「有栖川宮大総督……」

「そやそや。つまりトコトンヤレナの宮さんや。この熾仁親王さまが官軍の総大将や」

「その歌、知っとる。お婆さんが歌ってくれたことあるもん」と、喜三郎は熾仁親王の肖像画をそっと指先で撫でる。

 子供の喜三郎には、音読はできても、意味の不明な部分がある。庄兵衛は、読めぬ文字を喜三郎に読ませると、はっきり内容が理解できる。それからは、戸長はこっそり、数え七歳の喜三郎に新聞を読ませる習わしとなった。正規に習ったこともない文字がなぜ読めたのか、吾ながら不思議だったと、後に喜三郎自身が述懐している。

 新聞を読み出した頃から、喜三郎の別の才能が発見された。早朝から井戸掘りしていた近所の衆が、掘れども掘れども水が出ず、閉口していた。さっきから地面に耳をつけていた喜三郎が、やがてたまりかねて言った。

「おっちゃん、そんなとこなんぼ掘っても出えへんで。水の筋はここや、ここや」

 ふところ手したまま、喜三郎はとんとんと足踏みしてみせた。水が出ず、いいかげん頭にきていた井戸掘り男がどなった。

「あほんだら、お前になにわかるけえ。邪魔やさけ、あっち行っとれ」

「わしが言うてもどうせ信用せんやろさけ黙っとったけど、あんまり気の毒や思うて教えてやって損した。遊んでこーっと……」

 喜三郎が去ってから、ふと気が動いて、男はためしに足踏みした地点を堀り下げてみた。たちまち水が噴き出した。その話が伝わり、以来井戸掘りがあると、小さな喜三郎を連れ出して地底の水音を聞かせ、飴玉をしゃぶらせて水脈の指示を仰いだ。神童、地獄耳という噂が、村の内外にひろまった。

 まだ埋火からはなれにくい初春、なんのはずみであったか、喜三郎は囲炉裏に落ちこんだ。小さい爺さんがとび出してきて、火中からひき上げ助けてくれた。その時の大火傷の痕が、死ぬまで左腕にはっきり残った。その爺さんが、やがてさっぱり姿をあらわさなくなった。

「物言わん爺さん、どこ行ったんや」と、喜三郎は、宇能に問うた。不思議に思って、宇能は爺さんの様子をくわしく聞き出し、ため息をついた。

「やっぱり、あの人はお前を守ってくれてはったんやなあ」

 物言わぬ爺さんが死んだ祖父吉松の霊と知ってから、喜三郎はにわかに恐くなり、しばらくは隣家にも一人で行けなかった。

 この夏、吉松夫婦と賀るは子らを連れて遊ばせながら、畑の草引きをしていた。喜三郎は木切れで、土に絵をかいて遊び、由松は大人の真似して草を抜いていた。賀るが急に世祢の袖を引き、由松を指さした。吉松も何事かと、由松の無心の所作を眺めた。四歳の由松が草を抜いては口にくわえ、一杯になると畑の外へ行って吐き出した。その動作が祖父と酷似しているではないか。潔癖な祖父は、畑で草を見つけると必ず引き抜いて、口にくわえたなり畝の終わりまで耕していって、野路へ吐き出す。

「けったいな癖や」と家族はおかしがったものだ。

 祖父を知るはずのない由松が……大人たちが息をつめて見ていると、由松はくるりと振り返り、しわがれ声で叫んだ。

「俺がわかったか!……」

 祖父の声、祖父の顔であった。先代吉松の再生に違いない。祖父の心残りの仕事、つまり残った僅かの資産をなくすべく、遺言通り生まれかわってきた――大人たちはその予感に怯えた。

 秋も深まったある日、吉松は喜三郎を連れ、久しぶりで川辺村船岡(現京都府船井郡園部町船岡)の佐野家へ里帰りした。目あては翌日の産土神社の秋祭りであった。参詣後、境内の草相撲や道化芝居を楽しんで、親子は、八木の近く吉富村大字雀部の漆さしの家へ立ち寄った。無病息災を願って、喜三郎の腹部へ十数点の漆をさしてもらった。

 道々、喜三郎は痒さのあまり掻きむしった。穴太に着いた頃には、体一面に漆がひろがっていた。父や由松と違って、喜三郎の肌はきめが細かく、梅の花びらのような色であったから、あまり丈夫でなかったに違いない。体全体がはれ上がり、瘡になって、ついに身動きできぬほどになった。息災を願う親心が仇になった。

 吉松は沢がにや泥鰌をとってきた。宇能が沢がにをすりつぶして体に塗ったり、生きた泥鰌を体熱でぐったりなるまでなすりつけたりしたが、頑固なかぶれは治らない。翌明治十一年春、学齢に達しても小学校へ行くことはできなかった。この時の漆かぶれの痕跡は、生涯腹部から消えぬぐらいひどかった。

 明治十二(一八七九)年三月、三男幸吉が生まれた。世祢は弟二人に手をとられ、喜三郎の世話はほとんど祖母宇能にゆだねられた。宇能はつききりで、学校へ行けぬ喜三郎のために仮名から単語篇・小倉百人一首と順次教えこんだ。すでに新聞も読める喜三郎であったが、基礎の書き順から学ぶことに意義があった。記憶力と理解力はすばらしい。一度聞けばきちんと頭に整理され、しまいこまれた。

「喜三や、お前はたしかに只者と違う。血は争えんというが、ほんまやなあ」

「応挙はんの七代目やろ」と、無邪気に喜三郎は祖母を見返す。宇能は半ばうなずき、半ば否定して、

「それだけやない。お前の体には高貴な方の血が……天子さまと同じ血が流れている」

「そら……誰かて天子さまの子供やさけ」

 打てば響く喜三郎の言葉に、宇能は黙した。それ以上は言えぬ。いつもそこで切れる話題であった。

大本柏分苑

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