『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)は刺激的だ

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 「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつ分かっていない」という書き出しにはじまる少女のアイドル追っかけを描いた物語、それが「推し、燃ゆ」である。そんな物語がということでちらっと横目で追うだけですましていたが、手に取ってみて一気に読んでしまった。以前に、音楽業界にいる友人から、若い女性(ある意味では中年の女性)たちのアイドルの追っかけ生態というか、風俗を興味深く聞いたことはあるが、どこかよそ事のように思ってもいた。この本はそんな時代に僕が疎くなっているのだと感じさせた。そしてこのテンポもよく、少しも停滞感を感じさせない物語に、心揺さぶられた。この作品は芥川賞の受賞作品だが、直木賞作品の『心淋し川』もよかった。こちらは江戸時代に下町で生きる人たちの身近なところでの哀歓を描いたものだが、感銘深いものである。この二つの作品を対照しながら評してみたいと思ったが、誌面の関係もあり、この『推し、燃ゆ』の方を評したい。

推しといわれるアイドルは上野真幸と呼ばれている、男女混成のグループであり、アイドルグループは「まざま座」と呼ばれていた。そこには明仁くん、みふゆちゃん、セナくん,ミナ姉とよばれるアイドルが所属していたが、真幸が中心と見られていた。この彼の追っかけをしているこの作品の主人公はあかりとよばれる。高校生である。父親は海外赴任している。母親と姉のひかりと彼女の三人で暮らしている。父親の海外赴任にあたって母親は一緒に行きたかったらしかったが彼女の母親(あかりの祖母)に強く反対され断念した。彼女は仕事をしながら、夫のいない不満を子供の教育に向けるように努めるが、それに順能しようとするが、彼女はうまくいかない。彼女はアルバイトもしているが、その金は「推し活(アイドルの追っかけ活動)につぎ込んである。プロマイドやCDなどを買うに費やしたりしているのである。

端的に言えば、彼女の学校生活も含めて日常生活はうまく対応ができていない。その分、彼女は「推し」の追っかけにのめりこんでいる。それはずうっと以前からやっていたことでもある。少年や少女たちがスポーツや芸能活動に、いうならアイドルを目指して活動をすることとあまり違わないと言える。こうした

活動にはそれを支える背景といか、それをなす人たちがいるのである。

彼女にとって「推し活」とも言える活動は日常生活での疎外感からの救いであり、自分の生命をとりもどす行為である。家族や学校での関係で気まずさを抱えている。これは学校や家族にうまく対応できなくて、そこに入れなない、いうなら関係障害を抱えている。これは、姉のひかりがそれなりに順能できているのとは対照的である。彼女は社会的不適合ともいうべき、日常での疎遠感を推し活(アイドル追っかけ活動)で解消しょうとしているのであり、この活動を命の活動といっている程なのである。彼女のアイドル追っかけは物心がつきはじめたときからであり、今は高校生だがそれ以前からだった。このアイドルグループというか、「推し活」活動は長い。「人生で一番最初の記憶は真下から見上げた緑色の姿で、十二歳だった推しはそのときピーターパンを演じていた。あたしは四歳だった。ワイヤーにつるされた推しが頭の上を飛んで行った瞬間から人生が始まったと言っていい」(『推し、燃ゆ』)。ただ、彼女が彼に一体化を感じたのは高校生一年生の頃で、彼がピーターパンの中で大人になりたくないという言葉に、重さを背負って大人になることを、つらいと思っていいのだという言葉として受け取ったときだという。つまりそこに同じものを抱える人影をみたのだという。人は大人になるときに、様々な障害感をもつ。これはコンプレックスや逆の優劣意識と言ってもいいものである。現在ではそれは社会的不適合意識と呼ばれるのかもしてないが、自我の形成過程とはそういうことを避けがたく持つものであるともいえる。少し前だが、僕は『犬がいた季節』(伊吹有喜)に青春期の意識が鮮烈に取り出されるのを見たのだが、同じものを見たと言える。

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 彼女が高校生になったころに「推し」はファンと目される女性を殴り、SNS上で炎上する。それはこのグループのファン離れが生じ解散に追い込まれる。推しである真幸の行為であったから、特に彼のファンの離れは激しいものがあり、逆に彼を支えようとするファンの一部では強くなる。この作品はここからアイドルの解散と最後のコンサートまでの一年半のあかりの日常と活動が書かれている。アイドルの徒の関わりはさまざまであり、その実態についてはこう書かれている。「アイドルとの関わり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉するひともいれば,善し悪しがわからないとファンといえないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品に興味がない人、そういった感情ではないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使う事に集中する人、ファン同士の交流が好きな人。あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった」(『推し、燃ゆ』)。彼女の活動はいうなら批評的でもいうべきものであり、どこかで小林秀雄が「批評とはおのれの夢を語る:ことだといっていたことを思い出す。彼女が自分のスタンスに気がつくのは高校生のこでろで、彼女が初めて十二歳の真幸をみたとき(彼女は四歳だった)からの回想はそれを物語る。彼女この事件で自分の「推し活」について自覚的になるのだが、ファン離れも加速する中で、これからも推し続けることは決まっていたとなる。

彼女は学校生活にはうまく適合できなく、高校は留年を宣告され、退学する。そうした中で祖母が亡くなる。そうした中で祖母が亡くなる。この祖母は母方の祖母であり、父の海外赴任にともない母も一緒に出掛けることに強く反対し、母を日本にとどまらせた存在だった。この葬儀に帰国した父をまじえた話し合いの中で、あかりは就職を迫られるが、これはうまくいかない。「居間に戻ると、なぜか就活の話になっていた。母に言われるもままソファに沈み、目の前に乳が陣取る。母が脇でテーブルを片付ける。父も母も、重い空気をわざと醸し出している。しらけた気分だった」(『推し、燃ゆ』)。らちはあかなかった。「できなかったのと」あかりが答えると母は嘘、コンサートには行く余裕はあるくせに、という。あかりには体が動かないのであり、母や父はそのことに視線はいかない。

学校も中退し、就職もままならない中で、家族とのおりあえないあかりは祖母に家にすむことになる。就職もせずに、コンサートなどには出掛けて活動ている。

こうした中で、「まざま座」はやがて解散に向かって進んで行く。それには「推し」がファンを殴ったことに端を発していたと思われる。そして、「推し」がかつてつて殴ったと目されたファンの女性と結婚ということも絡んでいるようにみえる。僕らはジャニーズ系のアイドルグループの解散劇を新聞やテレビなどでみているが、これに類したことが起こった、といえようか。ファンでもない僕らにはそれに大騒ぎしている光景をあり何だと、見ているところがあるが、ファンにとっては大変なことなのだろう、と思う。

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 この解散についてはこう語られている。「解散について、ラストコンサートについて,推しの結婚について炎上した時を上回るほど活発につぶやかれ、一時は<推しの結婚>がトレンド入りするほどの騒ぎになった。<待て待て待てついてけん><みふゆちゃん納得できてなさそう かわいそうね><推しの幸せは笑顔で祝おうと思ってたけで涙止まんねえな>」(『推し、燃ゆ』)と。あかりは推しがいなくなる衝撃を受け取りそこねており、自分は身を削ってでも。つぎ込もしかないという心境になっている。推すことは彼女の生きる手立であり、業だったからである。彼女はさいごのライブに今自分の持つすべてを捧げる決意をし、出掛けていく。

 彼女はラストコンサートに出掛け、それは推しの名前を叫び、追うだけの存在になることであり、ライブコンサートで熱狂した一員になることだった。それはアイドルグループのコンサートに熱狂することで、かつてならロックに狂じることであったといえようか。そしてこの中でのことを次のように語る。

「推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放した何か,普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを推しがひき釣り出す。だからこそ、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、わたしはわたし自身の存在を感じようとした。推しの魂の躍動が愛しかった。必死になって追いつこうとして踊っている。あたしの魂が愛しかった」(『推し、燃ゆ』)。ここで書かれていることは彼女の「推し活」(追っかけ)の行為を語っていることでもあり、彼女が不適合な関係のなかで自己を解放めざして抗っていることだった。これは、ただ追っかけしか見えない彼女たち行為の内実をなしているものと言える。

このコンサートを最後に推しの活動が終ることは彼女を絶度に追い込む。それは「なにをしたかわからないが、あたしから背骨を奪ないでくれ、推しがいなくなったらあたしは本当に生きていけなくなる。あたしはあたしだとみとめられなくなる」(『推し、燃ゆ』。ということだ。こういう思いは青春のある時期に人はさまざまのことにおいて経験するのかも知れない。だだ、時代がその様々な形態を決めていくのだとしても。

この最後は冒頭の「推しがファンを殴った問題に帰って行く。それはこう書かれている。「なぜ推しが人を殴ったか、大切なものを自分の手で壊そうとしたか、真相はわからない。未来永劫、わからない。でももっとずうっと深いところで、そのこととあたしが繋がっている気がする。彼がその目に押しとどめていた力を噴出させ、表舞台の事を忘れてはじめて何かを破壊しようと瞬間が一年半を飛び越えてあたしの体にみなぎっていると思う。あたしにはいつだって推しの影が重なっていて、二人分の体温や呼吸や衝動を感じていたのだと思った。影を犬にかみちぎられて泣いていた少年が浮かんだ。ずっと、生まれたときから今までずぅと、自分の肉が重くて鬱陶しかった。今、肉の戦慄にしたがって、あたしはあたしを壊そうと思った。滅茶苦茶になってしまったと思いたくないから、自分から、滅茶苦茶にしてしまいたかった」。(『推し、燃ゆ』このラストの告白はこの作品の冒頭と見事に対応しているが、彼女の「推し活」の事を語ってもいる。僕はブレデイみかこが『女たちのテロル』で金子ふみこをとりあげ、「自分を生きる」ということを語っていたことを想起した。これは女の現在のテロルであり、自我を創る時にいつの時代もさけられないことかと思った。

大本柏分苑

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