謎の投書が語る和宮惨殺の物語

和宮の侍女であったという女性から、朝日新聞と調査団に奇怪な投書が舞い込んだ。明治初年の頃、和宮が岩倉具視と投書者の祖母に当たる宮の祐筆に若干の供回りを連れて江戸から京都へ向かう途中、箱根山中で賊に遭い、防戦中に自害されたという内容であった。差出人が匿名であったこともあり、この投書は一笑に付されたようだ。しかし、正式な発掘調査報告書『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会)の本文中に「(昭和三十四年)三月○日、静寛院宮の臨終について朝日新聞社、および調査担当官に投書が来る」の一行が記録されている。

原文は調査団のひとりである鈴木尚氏の著書、『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』

鈴木氏は「達筆で認められたこの手紙は、教養と自信であふれていた」と記し、さらに「和宮の遺骨には、刃の跡その他の病変部は認められなかった。ただ、...不思議にも左手から先の手骨は遂に発見されなかった」「可能性としては、晩年の和宮に、彼女の手のなくなるような何かが起こったか、あるいは秘されているが、和宮か何かの事件に巻こまれたか、ということになろうか。私は、前述の匿名夫人の説にも、時間的に不自然な点があるのですぐに肯定できるものではないが、ことによると、墓誌銘に伝えられるような脚気がもとで薨去されたのではなく、何か別の事件、たとえば投書の内容に似た事件にでも、巻き込まれたことがあっての御最期であったかもしれない。今となっては判断のしようもないが、何とも不思議な話ではある」と述べている。

手紙に「お手許品も何も入れず」とあるのも、消えた湿板写真以外に副葬品がなかった事実と不思議に一致している。ちなみにほかの将軍夫人たちは、華やかな副葬品と共に葬られているのだ。公式記録によると、和宮は明治二年一月一八日に東京(江戸)から京都に戻り、明治七年七月に再び京都から東京に移り、明治十年に脚気(かつけ)療養のため箱根塔之沢で湯治中に死去したことになっている。この点で匿名婦人の投書は年代が少し合わないが、和宮の自筆の日記『静寛院宮御日記』が明治五年で終わっているのは少し気になるとこである。

鈴木尚氏のいうように、今となっては事実はわからない。しかし、もしも亀岡の八木家の塔に眠っている「分骨」が和官の左手首だったとすれば、すべての辻棲が合うことも確かなのである。また、匿名婦人の投書がなんらかの事実を伝えているとしても、なぜ明治政府はその事実を隠蔽する必要があったのか、という問題は残る。たしかに、皇女が盗賊に襲われて死亡したというだけでもスキャンダルであり、治安責任者のみならず政府の責任が厳しく問われることになる。

とくに匿名婦人の投書で、岩倉具視の名前があがっていることが気になる。岩倉は和宮の降嫁を強引に進めた冷血な策謀家であり、しかも後で述べるように孝明天皇密殺謀議の首魁と目される人物なのである。そう、この話の背後には、隠されたもっと深い闇があるのではなかろうか。

■篤姫は島津の日本統一計画に関与していたか。そして

和宮は明治二年(1869)一月二十日頃、やはり箱根山中で岩倉具視差し回しの賊に襲われ、自害することになった。そして、邪推に過ぎないが、私はどこかで篤姫が関与していると思う。篤姫は薩摩出身の姫として、長州でなく薩摩が、徳川だけでなく日本を盗る、掌握するよう密命を入内する前から帯びていたのではないか。あるいはそのような野心が膨れあがらなかっただろうか。関ヶ原の戦いに負けて冷や飯を食わされ続けた薩摩島津家、冷遇された島津家から島津斉彬の命令で送り込まれた天璋院篤姫だったからこそ、島津の思い通りにならない将軍たちを殺めていつか徳川に代わり島津が天下を盗る。そこに1549年薩摩に上陸し、日本で最初にキリスト教を伝えたイエスズ会創立メンバーサンフランシスコザビエルたちの深慮遠謀が篤姫の背後に貴巻いていなかったか。。徳川十三代将軍家定の御台所となった篤姫は、憎き皇女和宮の夫、徳川家茂の暗殺にも深く関与しなかったか。出口王仁三郎著 霊界物語41巻を読み解くと、和宮は終生有栖川宮熾仁親王を愛し続け、ひそかに熾仁親王に艶書なのか手紙を送り、岩倉具視の妻を通じてそれが家茂にご注進され、心も身をも任せない和宮に家茂将軍が手を焼いたことが秘密裏に書かれている。家茂は怒りのあまり、和宮を座敷牢に入れたようだ、それを救い出した男がいる。それが和宮とともに江戸に同行した八木清之助と私には思える。男は霊界物語の中で「リーダー」という名で描写されている。当時いわばうばざくらであった篤姫にとって、若く聡明で美しく胆力のある和宮はまさに島津の天下取りのために不倶戴天の敵であり、家茂もまた同様であった。王仁三郎は『霊界物語41巻』でヤスダラ姫こと和宮にこう語らせている。シャールとは徳川家茂である。

~と情ある言葉に、和宮はヤッと安心し、嬉し涙を袖に拭いながら、

『思いもよらぬ御親切な御言葉、有難うござります。何を隠しましょう、妾は京の都の左守クーリンス  (仁孝天皇か)の長女と生れ、(兄)゜孝明天皇の許嫁でござりました所が、ハルナの都(江戸)の大黒主様にこびへつらう岩倉具視の為めに遮られ、種々と難癖をつけられた挙句、テルマン国(江戸)の毘舎(商工人・ここでは徳川家茂)が妻とせられ、今日まで面白からぬ月日を送って来ました。今貴神のお言葉の通り身魂が合わないのか存じませぬが、夫のシャール(家茂)に対して少しも愛の念が起らず、夫も亦妾(わらわ》に対して至極冷淡、路傍(ろぼう)相会う人の如く、夫婦としての暖味は夢にも味わった事はございませぬ。妻として夫に対して愛を捧げるが道なれども、如何《いかが》したものかその心が湧いて来ませぬ。もったいない事ながら、明けても暮れても親の許嫁《いいなづけ》の夫熾仁親王様の事が目にちらつき、お声が耳に響き、熾仁親王の事のみ夢現《うつつ》に恋い慕い心に罪を重ねておりました所へ岩倉具視の妻テーナ姫 (駐 正室は゜誠子・継室は慎子だが)夫家茂の館に岩倉具視の使者として現われ来り、妾に対し無理難題を吹きかけ、夫の家茂を威喝《いかつ》して遂に獄舎(注 座敷牢のようなものか)を造り妾を投げ込み、非常な虐待を致すのでござります。妾は最早運命つきたりと覚悟を極め、涙にくれる折しも、雨風烈しき夜半、これなる忠僕リーダー(八木清之助)が獄舎を打破り、妾を背負い暗に紛れて此処まで漸う連れて来てくれました。之も全く神様のお蔭と竜雲殿の御保護でござります。最早此世に望みはござりませぬが、せめて一度父のクーリンス(仁孝天皇)や妹のセーリス姫に面会しとうござります。又成る事ならば一目なりとも王様のお姿を拝みたく存じます。それさえ出来れば最早死んでも怨みはござりませぬ』と身の上話にホロリと涙を落し差俯むく。

『『霊界物語41巻14章「慈訓から』

何しろ養父薩摩藩主島津斉彬からの篤姫への指示は一橋慶喜を将軍継嗣にするよう徳川家定に働きかけることであったのだから。そして慶喜《よしのぶ》のあとに後の田安徳川家十七代当主,静岡藩初代藩主田安亀之助を十六代将軍として擁立し、篤姫の意のまま動かすことを狙っただろう。田安亀之助は後に徳川家達《いえさと》と名乗り、貴族院議長などを歴任する。大正三年(1914)薩摩出身の海軍大将(第一次)山本権兵衛内閣の崩壊の後を受けて組閣の大命を受けるが拝辞する。その後組閣の大命が降ったのが、後述の偽和宮と思われる南部郁子の弟英磨の義父となった大隈重信なのだ。

恋敵《こいがたき》和宮の夫家茂《いえもち》を殺《あや》めることになんのためらいもなかったはずだ。そして家定は女性であったと思う。さて場面は江戸城。和宮と天璋院篤姫の軋轢《あつれき》の場。篤姫と和宮は京都御所では周知の中、もし和宮が替玉であれば、篤姫は瞬時に見抜けたはずだ。京都御所には、幕末まで様々な公家屋敷がひしめいていて、禁門の変で焼失したが、今出川御門北に現在同志社大学が所在しており(恒は院で和明は中学で在籍)、篤姫がいた薩摩藩邸も幕末にはこの地域にあったとのこと。和宮も皇女ですから御所に出入りし篤姫のごく近くにいたはず。

●生理的に日干しにされ続けた篤姫と匂やかな和宮。女性だった十三代将軍家定

江戸城大奥最後の日々から引用する。

和宮の側では、あくまで皇女たる立場を堅持しようとし、天璋院のほうでは姑としての立場を明示しようとする。姑といっても和宮よりわずか十歳の年長で、宮の入輿当時はまだ二十六歳にすぎない。現代感覚からいえば未婚の女《むすめ》を連想するが、十四、五歳で結婚した当時においては、すでに肉置《ししおき》ゆたかな姥桜《うばざくら》の観があった。片や若い和宮には京おんなに共通の肌の白さ、きめのこまかさがあり、深窓育ちの貴女の匂やかな香りが鼻先をくすぐるが、花の盛りをすぎた天璋院はその香《かぐわ》しさも失せ、本つ根〈男根〉の坐《おわ》さぬ家定に嫁して、生理的に干乾《ひぼ》しにされてきた欲求不満が臓騒《ヒステリー》となって、その面相をきつくしている……。(栗原隆一「江戸城大奥最後の日」『将軍家・大名家、お姫様の明治維新』別冊歴史読本)。

ここで気になったのは篤姫の夫、徳川家定とは実は女性ではなかったかということ。

、私恒も歴史が好きで読みあさったものだが、家定は簡単な料理をしたり、カステラなどのお菓子作りが趣味だったと聞く。人に何かと振る舞うのも好きだったよう。

「大奥最後の日」をよんでどきっとしたのは「本つ根」の在(おわ)さぬという言葉だ。まさか事故で男根を失ったのでもなければ家定は女性だった。

家定は正室として鷹司政煕(たかつかさまさひろ)の娘・任(あつ)子や一条忠良の娘・秀(ひで)子を迎えたが、早世し、天璋院篤姫との間にも実子はなかつた。素直に家定は女性であり、表に立てない将軍だったのではないか。妻を体裁上迎えないわけにはいかないし、迎えた妻が秘密を漏らそうとするなら口封じをするしかない。当時の男の論理なのでしょうか。篤姫は家定が女性だと言い含められ、御台所になったのではないか。家定に愛情など湧くはずがない。また熾仁親王を終生愛しぬいた和宮は、霊界物語41巻の暗示によると家茂との男女の契りを拒んでいた。家茂への愛情はつゆほどもなかった。当時の大奥は二人の女にとって愛情砂漠であったろう。一方主君や二人に仕える女たちの乱脈は進んだ。一橋慶喜が将軍として登場するまで。もっとも私は徳川家重にも女性だったという噂があるし。王仁三郎は武田信玄と上杉謙信の愛を語り、謙信が女性であることを示唆しているし、家の存続のため男子を残さなければならない将軍家などにおいてはさほど家定が女性であっても不思議ではない。篤姫と和宮、家定と家茂の関係など時代を読み解く鍵となるのではないか。

大本柏分苑

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