平成の天皇と出口王仁三郎聖師 NO.3

○平成の天皇は象徴を全うした

 社説の締めくくりの部分である。

 「即位後朝見の儀」で陛下は「憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓う」と述べた。

天皇の名の下に戦争へと突き進んだ過去の反省を込めたものと言えよう。

二〇一三年四月二八日に開かれた政府主催の「主権回復の日」式典に安倍政権が陛下を招いたことは政治利用の一つだった。陛下自身の意にも反していたのではないか。憲法順守の姿勢は新天皇にも引き継がれなければならない。

陛下は原爆が投下された広島、長崎にも思いを寄せ、東日本大震災など自然災害の被災地を訪れ、人々を励ましてこられた。国民と共に歩む皇室の在り方を実践してきた。

象徴天皇としての務めを全うしたと言えるだろう。

平成の天皇は、過去の戦争を反省するとともに憲法を順守し、国民と共に歩んで来られており、「象徴天皇としての務めを全うした」と社説は結論づけている。沖縄の地元紙でこその説得力がある。

つまり、「天祥地瑞で、聖師がご誕生を祝した平成の天皇が、その期待どおりに戦後の民主国家での象徴としてのお役目を、十分に果たされた」、このようにまとめることができる。

  〇身の過ちは宣り直せ

 なお、「拝謁記」に関する番組の趣旨は、昭和天皇は国民に戦争への反省を述べ、また、天皇を退位することを希望したが、吉田首相がそれらを許さなかったというように私は受け取った。

一方、平成の天皇は、何度も慰霊のために沖縄や南洋の激戦地を訪れるとともに、戦争への反省を述べられている。琉球新報がいう「贖罪」にふさわしいのではないか。

全国戦没者追悼式で、安倍首相が戦争への反省に全く触れないのに対し、平成の天皇は戦後七十年目の式典で「さきの大戦に対する深い反省」を述べ、その後の式典も反省の言葉が続いた。また、退位も自らの意志で行った。時代的背景の違いもあろうが、昭和天皇とは対称的である。

ところで、教えで「省みる」について、基本宣伝歌には「この世を造りし神直日 心も広き大直日 ただ何事も人の世は 直日に見直せ聞直せ 身の過ちは宣り直せ」とあり、感謝祈願詞(みやびのことば)にも「直日の御霊によりて正邪理非曲直(ことのよしあし)を省み」とある。さらに天地の律法の内面的五戒律の一番目が「反省(かえりみ)よ」(註3)である。

 また、詳しくは「神直日神(かむなおひのかみ)は宇宙主宰の神の直霊魂にして、大直日神(おほなおひのかみ)は天帝の霊魂の分賦たる吾人の霊魂をして、完全無疵(むし)たらしめんとする直霊である。所謂(いはゆる)罪科(つみとが)を未萠(みぼう)に防ぐ至霊」「省(かへりみ)る。この戒律を失ひたる時は、直霊(なおひ)直(ただち)に曲霊に変ず」(註4)と示してある。直日とは、けっして三代教主さまのことではない。

省(かへりみ)る心しあらばすさび来る八十(やそ)の曲津もほろびゆくべし 〔大本の道〕

このような省みることの重要性からして、国民の統合の象徴たる平成の天皇が、率先して戦争への反省を述べられた意味は大きい。また、霊界物語で活躍する宣伝使の大半が「改心組」である。

(註3)第二巻第四五章「天地の律法」

(註4)第十巻第二九章「言霊解三」

〔余録1〕琉球の国魂神

「琉球国魂神の霊石」と題した山川日出子さんの文章が、『おほもと』誌昭和四十七年五月号に掲載されている(註5)。

◇昭和三年元旦に琉球の波の上神社に参拝された聖師から、山川さんが小石を二つ渡された。これを昭和十年の事件中、ご主人の生家鳥取でお祭りした際、「豊玉姫」とのご神示があった。

◇その後亀岡に帰り聖師から「大本でも豊玉姫は祭ってある」と言われ、二代さまからも石は

「琉球の国魂」と言われた。また、聖師がお歌を残しておられた(註6)。

◇また、山川さんがふと「国魂神さんはお帰りの時期ではないか」と思われ、昭和四十七年三月、琉球主会長の崎山氏に渡し、沖縄の波の上神社に鎮祭された。

昭和三年三月に沖縄を離れた国魂神の霊石が沖縄に帰ったのが昭和四十七年三月。その五月に沖縄が本土復帰を果たしている。

あたかも、沖縄の米軍統治の終了を待っていたかのように、本土復帰とともに沖縄に帰り、国魂として祭られたということになる。

(註5)『愛善世界』誌平成九年五月号転載

(註6)斎垣(いみがき)の小石もらいて琉球の国魂神と永遠に斎かむ(昭和三年一月元旦)

〔余録2〕天皇は宇宙絶対

 今回、参考にした本の中に、出口聖師や大本に関して興味深い記述(註7)があったが、何より詳しく、かつ理解をもって書いてあったのが、松本健一著『昭和天皇伝説 たった一人のたたかい』〔朝日文庫〕であった。

「昭和天皇が記憶の王だったとすれば、かれがその記憶に強く刻みつけながらも、決して口にはだしたくない人名がいくつかあったはずである。それはたとえば二・二六事件における北一輝、大本教事件の出口王仁三郎、そして三島由紀夫などではなかったか」(六七頁)

「大本教の出口王仁三郎にあっては、北一輝が紹介していた一海軍軍人の「一死以テ君国ニ殉ゼンノミ」という発言の、その「殉ゼン」とする対象の設定それじたいが間違いである、といったにちがいない。「君国」にではなく、「神の国」にこそ、人は殉ずべきである、と。

いや、「神の国」は人を死なしめるようなものであってはならず、人を生かしめ、安心へと導くようなものでなくてはならない。そのような「神の国」をつくりだすことが革命なのである、と。もっといえば、人が神に復ってゆくことが革命の本義なのである、と」(一○一頁)

この文章の後に、「月鏡」の「神と倶にある人」(註8)中の「春の気分で世に処するのが、惟神の大道である」など、かなりの文章がそのまま載せてある。また、「出口王仁三郎の文章には、香気のようなものが漂っている」(一○二頁)とまで誉めている。そして「このような信仰の言葉のどこが危険思想、邪教なのであろうか」(一○三頁)と擁護している。さらに

「王仁三郎は白馬にまたがって昭和神聖会の閲兵式をおこない、天皇にならった「尋仁(ひろひと)」という号を用い、娘の純白の帯に皇室を模した「十六菊花」の紋章をつける、といったぐあいに、天皇制国家になぞらえて「大本国家」をつくろうとした。これが天皇制国家の忌憚にふれないはずがない。たとえこれが昭和天皇を見倣い翼賛する行為であるにしても、それは天皇に「真正カリスマ」を期待する行為、つまり天皇を変革の原理と捉えるものであったから、みずから合法化し合理化した立憲君主を理想とする昭和天皇にとっては、迷惑千万な天皇制ファシズム=革命と映ったはずである」(一○六頁)

(註7)福田和也著『昭和天皇 第二部』〔文春文庫〕飯森正芳方に身を寄せていた女性運動家久津見房子の義理の子を、出口聖師が預かり幹部の娘として育てた(一〇七~一○九頁)。第一次事件で破壊された聖地の木材が、目を疑うほど高品質であった(二二八頁)。

(註8)天声社版(昭和五一年)七六頁

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