善と悪 美と醜 part ②
人間の霊魂には、反省するというすばらしい働きがあるから、善悪の判断にまた悩みもする。「私は絶対に間違ってない」「僕は絶対に正しい.」など強弁しがちだが、王仁三郎によれば、人に「絶対」はない。「絶対ということが絶対にない」といいきってしまうと論理の矛盾だが。
善悪の問題には、全体と部分といった関係があるようだ。自己にとっての善がその属している集団にかかわれば悪になりうる。一集団にとっての善が、もっと大きな集団に、たとえば国にとっては悪かも知れない。ある国の善が世界全体からみて恐ろしい悪になることだってある。神の目から見ての善がそれぞれの段階で一致して善となればすばらしいが、なかなかできない。
完全な悪などは、人間の分際として、したくてもできない。万類を絶滅させかねない核兵器にしても、持っている者は核抑止力という理屈によりかかり、世界の平和を守る手段としての善だと主張する善悪が時所位によって異なるとしても、せめて最低限の善悪の基準がほしい。それは何か。
「善は天下公共のために処し、悪は一人の私有に所す。正心徳行は善なり不正無行は悪なり」(『霊界物語』一巻、一二章「顕幽一致」)
どんな善であれ、私欲を肥やすためのみに行うのは、真の善とはいえないし、たとえ多少の悪が混じっていても、天下公共のためになる行為は善といわねばならない。
「文王一度怒って天下治まる。怒るもまた可なりというべし」で、ときには怒ることも必要だ。また何もしないのは、かえって悪に通じる。竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)などは、せっかく恵まれた天分を活用もせず、行動しないのだから、神の目からはやっぱり悪だ。
「人間には神の属性がすべて与えられている」との王仁三郎哲学によれば、凡人の中に神のすべてがある。言い換えれば、我々の持っている性質そのままが、神の分霊である以上、天国も人の作る現界も、本質においては差がないということだ。
仏の大慈悲とか神の恵み幸いといえども、凡人の欲望と本質的に変わらない。だがその働きに、無限と有限という天地の差がある。凡人は自分の妻子眷属だけを愛して満足し、他をかえりみない。神は、三千世界のいっさいをわが子とし済度しようという大欲望がある。凡人は小楽観者であり、小悲観者で、神は大楽観者であり、大悲観者だ。
天国は大楽大苦、裟婆は小楽小苦の境域である。理趣経に「大貪大痴(だんどんだいち)是三摩地(さんまぢ)。是浄菩提(じょうぼだい)。淫欲是道(いんよくぜどう)」とあるように、世間のさまざまな姿がそのまま深遠な道理をあらわすという、当相即道(とうそうそくどう)の真諦(しんてい)である。
人間の霊魂は本来、これを宇宙大に活動させることのできる天賦的性質を与えられている。だから神俗、浄穢、正邪、善悪などというのも、この素質を十分に発揮して活動するかしないかにつけられた符合にずきない。
天の下 公共のために身をつくす 人は誠の善神にぞありける
私欲(わたくし)の ために力をつくす人は 悪魔の神のかがみとぞなる
公の ために争うひとびとは 神の御眼(みめ)より罪とはならじ
国のため 世人のためといいながら 世の大方は身のためにする
神が表に現われて
哲学者や学者がいくら理性で善悪を分類し論じてこようとも、不完全な人間に真の判断がつくものではない。人間は知らず知らずの間に罪を重ねる。世の中には、目に見えない罪人は数限りなくある。王仁三郎は、「中でも一番罪の重いのは学者と宗教家だ。神さまからいただいた結構な霊魂を曇らせ、腐らせ、殺すのは、誤った学説を流布したり、神さまの御心を取り違えてまことしやかに宣伝したり、あるいは神きまの真似をするデモ宗教家、デモ学者がもっとも重罪を神の国に犯している」という。その学者や宗教家が尊敬され、尊重される時代だから、筆先で「今は獣の世、悪の世」と嘆く。
今日「最善」と思ったことが、明日は逆に「非常な悪」だったと気がつく。それだけ進歩したことを、むしろ喜ぶべきだろう。だから今日としては今日の最善を行なうよりない。明日になって過ちに気がついたら、悔い改めて正せばいい。悪と知りながら行うことは、もっとも悪い。
善と思うところを行なう日々にも、ふと迷いはあろう。神の目からはたして善かどうか。だからこそ、神の教えを求める必要がある。
「教えとは人の覚(さと)りのおよばざる 天地の神の言葉なりけり」
また大本の『基本宣伝歌』の中にこういう一節がある。
「神が表に現われて、善と悪とを立別ける、この世を造りし神直日、心も広き大直日、ただ何事も人の世は、直日に見直せ開直せ、身の過ちは宣り直せ」
善悪を裁くのは人ではなく、神である。我執(がしゅう)にとらわれて過ごした日々を省み、神の目を恐れるあまり縮(ちぢ)こまっていてはいけないのだ。わが心に見直し聞き直しながら最善と思ったことは勇んで実行し、知らずに犯した罪けがれは神に祈って見直し聞き直していただく。そこに信仰の喜びもわいてくる。
〔基本宣伝歌〕
朝日は照るとも曇るとも/月は盈(みち)つとも虧(か)くるとも/たとえ大地は沈むとも/曲津の神は荒ぶとも/誠の力は世を救ふ/
三千世界の梅の花/一度に開く神の教/聞いて散りて実を結ぶ/日と地の恩を知れ/この世を救ふ生神は/高天原に神集ふ
神が表に現はれて/善と悪とを立別ける/この世を造りし神直日/心も広き大直日/ただ何事も人の世は/直日に見直せ聞直せ/身過ちは宣り直せ
鬼も大蛇も料理する
王仁三郎は、世間で悪人といわれる人でも上手に使った。「毒にならぬものは薬にもならぬ。毒もうまく使えば、たいした働たきをするものである。毒にならぬものは、ただ自分だけのことができるぐらいのものだ。
『聖師さまのそばには悪魔ばかりがついている』とののしるものがあるそうだが、よし悪魔であってもさしっかえないではないか。毒になるものは薬になる。かのいわゆる善人なるものは、ただ自分自身を救うことができれば関の山だが、悪魔が一朝大悟徹底改心すれば、多くの人を救う働きをするものである。
鬼も大蛇も救わにゃならぬこの神業に、尻の穴の小さい、毛ぎらいばかりしていて、他人を悪魔あつかいする人たちが、信仰団体の中にもたくさんあることは嘆かわしいことである。また悪魔を料理しうる人材がいかにもすくないことも、嘆かわしいことの一つである。お人のよいばかりが能ではない、私も本当に骨が折れる。誰か私に代わって、鬼も大蛇も料理するという偉才が早く現われないものかなあ。このワニ口は、鬼や大蛇はまだおろか、どんな骨の固い、腕節(うでっぷし)の強い獣物でも、かみこなすだけの強い歯を持っておるつもりだ。御心配御無用」(『水鏡』「毒と薬」)
『霊界物語』一巻一ニ章「顕幽一致」・六巻二O章「善悪不測」 ・同二六章「体五霊五」・一五巻八章「ウラナイ教」・二O巻八章「心の鬼」・三八巻一章「道すがら」・五二巻第一章「真と偽」・第一七章「飴屋」、『神の国』昭和七年三月号「大本は宇宙意志の表現」、昭和七年五月号「宗教は酒の如し」、『道の大原』ニ章、『道のしおり』一巻、『大本略義』「霊主体従」、『水鏡』「ミロクの世」、同「毒と薬」・・「三猿主義は徳川氏の消極政策」
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