平成の天皇と出口王仁三郎聖師 NO.2
十一回の来県の実績や沖縄の苦難への理解、また、贖罪の念を表す天皇が、県民感情を和らげたと評価している。さらに、天皇が、沖縄に無関心な本土の人々へメッセージを送ったことへの感謝も込められている。
ところで、沖縄には全国紙の購読がほとんどなく、地元紙の「琉球新報」と「沖縄タイムス」の二社の購読数が、ほぼ拮抗している状態(註1)である。
また、もう一方の「沖縄タイムス」も社説で、「天皇陛下きょう退位」沖縄の苦難に寄り添うと題して、平成の天皇の姿勢は真摯だと評価している。
「行動の持続と考え方の一貫性、沖縄に向きあってきた真摯な姿勢は疑う余地がない」「県民意識調査によると、天皇の印象について『好感が持てる』と答えたのは八七・七%に達した」「沖縄の人々のわだかまりが溶けつつあるともいえる」「両陛下の『国民に寄り添う姿勢』は、沖縄においても好感を持って受け入れられている」
なお、大本に理解を示している原武史氏(註2)も、五月一日の朝日新聞「考論 社会の統合 皇室頼みに危うさ」の中で、国民に近づき、民主主義とともに歩んだとして、平成の天皇について肯定的に論じている。
「日本人の皇室観は大きく変わった。
その理由は、平成の天皇と皇后の実績を否定しにくいことにあるのだろう。二人は昭和天皇が手をつけなかった慰霊や被災地訪問を通し、償いや弱者に寄り添う姿勢をアピールしてきた。昭和の時代は天皇は高みに立ち、臣民はそれを仰ぎ見るだけだったが、平成皇室は自分たちから国民に近づいた。
平成を通じて大きな災害が続いたことも、皇室の存在感を増大させた。首相が被災者に立ったまま声をかけていた時代から天皇と皇后は国民の前にひざまずき、一人一人に違う言葉をかけた。
戦後の民主主義とともに歩んだ天皇・皇后という印象も国民に共有され、知識人や歴史学者
の間にも天皇のシンパが増えた」
(註1)山田健太著「沖縄報道」ちくま新書
(五○~五一頁)
(註2)原武史著「〈出雲〉という思想」
講談社学術文庫(一九五~二○九頁)
○社説の続き〈昭和天皇の重い責任〉
琉球新報の社説の続きである。昭和天皇の戦争責任と戦後責任を指摘している。
しかし、県民のわだかまりが消えたとは言い切れない。沖縄の命運に関わった重い責任が昭和天皇にはある。
近衛文麿元首相が終戦を具申した一九四五年二月の「近衛上奏文」を昭和天皇が受け入れたなら、沖縄戦の惨禍は回避できたかもしれない。
昭和天皇が米軍による沖縄の長期占領を望むと米側に伝えた四七年九月の「天皇メッセージ」も沖縄の米統治に影響を与えた可能性がある。新憲法下での政治的行為だった。
沖縄に関する限り昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。それらをあいまいにはできない。二度と同じ悲劇を繰り返してはならないからだ。
ここで述べてある「天皇メッセージ」は、一九四七年(昭和二二)九月、米軍による沖縄の長期占領を望む天皇のメッセージが、外務省出身の通訳を通じて、GHQに伝えられたというものである。
昨年八月十七日のNHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録『拝謁記』」で、戦後の初代宮内庁長官が、昭和天皇から聞き取った内容の一部が放送された。ただ、一時間番組という制約もあったのか、「天皇メッセージ」には触れていなかった。
しかし、九月七日の一時間半番組、ETV特集「昭和天皇は何を語ったのか~初公開『拝謁記』に迫る~」では、「天皇メッセージ」の説明があった。
なお、この「天皇メッセージ」は、沖縄県公文書館でも米国国立公文書館から収集したものとして公開され、ホームページでも見ることができる。説明文がつけられているが「その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります」と申し添えてあった。
また、ETV特集では、「拝謁記」の一九五一年一月二四日の記録も併せて紹介していた。
マッカーサーが「沖縄と小笠原を日本の領土とはしない」と言ったことを昭和天皇が聞いて、「徳川時代以下となる。実質は違っても主権だけは認めてほしい」と言ったという内容であった。
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