善と悪、美と醜 ③
神はなぜ罪を犯す人を作ったか
岡本かの子が何かの中で「神さまはなぜ罪を犯す人聞をお造りになったのですか。人聞の罪を悪となさるなら、初めから全智全能のお力で、罪を犯さない人聞を作って下さればいいのに」というようなことを書いていたが、これは誰もが抱く疑問であろう。だがもともと悪を行えないように造られた人聞が善をしたとしても、それはたんに本能的善、機能的善であって、はたして善の名に価するかどうか。
自由意志は神から人間への最大の贈り物であろうが、やっかいなことには、何をするにしても常に選択をせまられる。いっそ自由意志などなければどんなに気楽であろう。人間、時には多少の悪を犯さねば生きられぬ。選択の余地なく生まれついていれば、犯した罪は自由意志を与えなかった神の責任に帰せられる。それなら、食ってはいけない目前のリンゴに手を出したからといって、罪の意識におびえることもない。
純潔をぜひ守らなければならぬとあれば、神は人聞を性的不能に造られたらいい。だがそれでは、人類は子孫を残すこととはできないし、生きる喜ぴすら半減するだろう。罰せられない保証さえあれば、悪の喜びを思うさま味わってみたいと、心の底で願っている人も少なくはあるまい。自分の自由意志で悪への誘いをはねのけ、あるいは悪のどろ沼から這い上がって善をなしとげてこそ、その喜びは大きいのだ。
神の立場でロボットを作れば
神が代行者として人聞を造ったように、人がその代行者としてロボットを作る。この場合、人はロボットに対して神の立場に立つ。今使われている単純な産業用のロボットではなく、選択の判断もできる複雑なロボットが完成されたとして、善悪を考えてみよう。有名なSF作家のアイザック・アシモフが作品の中で、「ロボット工学の三原則」というのを作っている。これは手塚治虫の漫画『鉄腕アトム』に使われており、人工知能の専門的な本にも論じられている。
一 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人聞が危害を受けるのを黙視していてはならない。
一 ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一原則に反する命令はその限りではない。
一、ロボットは、自らの存在を護らなくてはならない。ただしそれは第一、第二原則に違反しない場合に限る。
一応、それらの原則に反さなければ善、反したら悪と仮定しよう。人間でいえば第一第二原則が霊能、第三原則が体能に対応する。
さらにアシモフの三原則を拡張し、「ロボットはロボットに危害を加えてはならない。またロボットが危害を受けるのを黙視していてはならない」というのを付け加えるとしよう。
アシモフの小説の一場面。ロボットが人聞を危害から助けださなければならなくなった。人聞を救おうとすると、ロボット自身が破壊されてしまう状況だ。自分が破壊されると人間を救えぬ。かとい
って、見すごせば第一原則に違反する。どの原則を優先すべきかの判断力を失って、身動きができなくなる。単純なロボットであれば、間違いの少ない、完全に近いものはできる。だが単純なことしかできないから、使い道は限られてしまう。複雑なまわりの状況を判断して行動するロボットを作ろうとすれば、状況のさまざまのレベルから得た情報を総合して、判断させねばならぬ。
そこで判断の優先順位をいろいろ決める。欲をいえば、そのロボットにいちいち全部教えていたらたいへんだから、失敗やまわりの状況から自分で学習し主体的に行動する判断力があって欲しい。
それだけの精巧なロボットができたとしても、たくさんのロボツトが動いていれば、お互いの聞で協力がうまくいかない可能性がある。複雑さが増せば、それだけ判断がむずかしくなる。おまけに一回失敗すると、影響が後に残る。物理的な時間などの制約によって、完全な判断はできない。
何度でも修正することが可能なら問題ないが、それは不可能だ。
その時点時点で良いと思って判断しても、全体の流れでは悪いかもしれない。その時点で悪い判断をしたと思っても、全体の流れでは良い判断なのかもしれない。ロボットを方向性として善を行うように作ることはできても、完全に求めるのは不可能だ。ロボットに自主的な判断力を与えず、全
部人聞が面倒を見るしかない。そうすると何のためにロボットを作ったのかというジレンマに陥る。
人聞のすぐそばでロボットを働かせれば問題はないが、もし遠くで作業させる場合、人間とロボットが電波で通信することに仮定しよう。「判断に困れば人間に相談しろ」といって送り出しても、電波
の妨害物や雑音が入ると、ロボットの判断が狂ってしまうおそれもある。
そうなると、人聞がいくら「それをしてはダメだ」といっても、やってしまう。あるいは誰か他の人聞が、そのロボットを自分のものにしようと偽の電波を送れば、そっちのいいなりになってしまう。
ロボットに自由意志を与えないと単純なことしかできず、他からの悪にも従うおそれがある。自由意志を与えても、やっぱり悪を犯す可能性がある。親の立場と似ている。自由意志さえもたない子供なら、「この子はどうなっているのか」と先ゆきが不安だし、子供の自由にゆだねたい気があっても、悪に染まる可能性がいっぱいで、やはり心配だ。
悪人だ、善人だと決めつけるのは人聞の勝手、神の目には善人も悪人も同じ神の子だ。親はできの悪い子ほどかわいいというが、まして神は善人、悪人の分けへだてなどなさらない。ロボットを作る人間なら失敗作はあろうが、むしろ神は人聞を巧妙に造り過ぎたのかも知れない。
「人間に邪曲のあるは造化力の 巧妙すぎしと悔やます大神」と王仁二郎は歌う。
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