善と悪、美と醜 ②

人には霊能と体能がある

人間は誰でも霊能(霊的性能)と体能(体的性能)というニつのあい反する性能を具備している。霊能とは、向上、正義、純潔、高雅、博愛、犠牲などという、最高の倫理的、審美的感情の源泉であり、体能とは、呑みたい、食いたい、着たい、寝たい、犯したいなどの欲望をおこさせ、はては人聞をして堕落、放縦(ほうじゅう)、排他、利己などの非道徳的行為に導く。ならば霊能が善、体能が悪と思えるが、善と悪とは対照的な符号に過ぎず、絶対的な善の基準がきまらぬかぎり、対照語である悪が、悪いとも不必要ともいえない。

もし霊能がなければ他の動物と変わりなく、人間としての価値を失う。人聞を人間たらしめているのが霊能だ。だが体能がなければ自己保存もおぼつかなくなり一ヵ月をへぬまに人聞はこの地上から滅び去るであろう。

人聞が人間として生きて行くためには、霊能体能いずれも不可欠であり、両性能に優劣の区別はない。「陰滅すれば陽減す」で、体能が滅びれば、霊能もまた滅びてしまう。霊能も体能もともに宇宙の大元霊から分れ出る二大元質で、甲乙軽重の差はないのだ。霊(善)と体(悪)が合してカを生ずる時、そのカ徳によって善悪美醜がまじり合う。つまりその時の力の配分によって、善悪美醜がきまる。同じ夫婦の子供でも、その時の互いの体や心理状態の都合もあり、霊の状態のよしあしもからんで、男ができたり、女ができたり、美人ができたり、不美人ができたりする。

神が力徳によって万物を造った限り、悪をしない人聞を造ることは不可能である。

神の代行者としての自由意思

神は人聞をその代行者として造ったが、他の動物と違って特に優れているのは、主に二点であろう。

一 霊魂の働きが複雑精妙であること。

二 幅広い自由意志を持つこと。

霊魂については「一霊四魂」で述べたが、人聞が幅広い自由意志を持つとは、善人はなお善人に、また悪人はより悪人になるのも自由、逆に善人に立ち返ることも自由ということだ。だから人聞は、生まれながらにして創造的、自律的に悪を行う自由を内包している。

悪のできない人聞を造ったとしても、それは神の代行者としての自由の資格を失った動物に過ぎぬ。猫でも黙って鰹節を盗んだ時には逃げ、鼠(ねずみ)を取ってくると手柄顔して家人の前で食べる。彼らにも多少の善悪の観念はあろう。だが、罪の意識はあるまい。

罪の意識は、良心の有無と結びついており、良心がなければ、罪の意識は生まれぬ。猫に良心はない。彼らが肉や魚を盗んだとき、人間をみたらパッと逃げるのも、それは罪の意識ではなく、人聞の体罰を恐れるからだ。ところが虫や魚になると、善悪の観念すらない。害虫は畑の作物を荒すが、悪いことをしているという意識はなく、逆にまた益鳥は害虫を食ってくれるが、善をなしたという意識もない。ただ生存するための行為でしかないのだ。

大本柏分苑

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