善と悪、美と醜 ①
現界は善悪美醜(ぜんあくびしゅう)が混交
人間の善悪美醜は、その生きざまと死後の世界に大きくかかわる。では王仁三郎の善悪美醜観は何か。「天地開闢の初めにあたり、清く軽きものは天となり、重く濁れるものは地となった。故に地上は幾万億年を経るといえども、天空の如き清明無垢なることはとうていできないのが自然の道理である」
善悪美醜は人によって価値観が異なり、それをはかる尺度のないものだが、王仁三郎は、「善というのは、透明体である霊魂だ」という。「天帝(神)から贈ったところの至粋至純なる清い清い霊魂」なのだ。そして体とは物質そのもので、これを善である霊と対照して悪と呼ぶ。美もまた、神の目からみた美が真の美で、それと対照したものが醜となろう。
「天主一物を創造す。ことごとくカ徳による。故に善悪相混じ美醜互いに交わる」(『霊界物語』六巻二六章「体五霊五」)
王仁三郎は善悪一如、善悪不離を説き、「悪の中にも善があり、善の中にも悪があり、善悪美醜混交しているのが世の中だ」(『道の大原』二章)という。人間は肉体と精霊で成り立つ。言霊学では、霊をヒ、またはチと読む。人は精霊を止める存在だから、霊(ヒ)止(ト)なのだ。体はカラ、カラタマだ。もともと肉体は精霊を入れるために作られた中身なしの容器である。だから殻、空と同義で、カラタマは「霊魂が空(から)」とか、「霊魂の殻」などの意味がある。また現身(うつしみ・うつせみ)のことを「空蝉」と形容したりするのも、生きがいを失った肉体は、いわば蝉のカラのようなものだからであろう。そこで「大本教旨」にあるように、霊(チ)と体(カラ)と合し、
からたまも 霊魂(みたま)も神のものなれば 仰ぎうやまへ我とわが身を
からたまは よしまかるとも霊魂は いく千代までも生きて栄ゆる
霊体の 力徳により造りたる 万物に善悪美醜あるなり
善となり 悪となるのも力徳の 配合度合によるものと知れ
美と生れ 醜と生るも天帝の みなカ徳の按排(あんばい)なりけり
物体は にごりかたまるものなれば 元より悪しき性質をふくめる
世の中は 善事曲事まじらいて すべてのものは生(な)り出づるなり
至善至美の 神のつくりし天地も 善悪美醜はまぬがれざるなり
難波江(なにわえ)の 善きも悪きもまじこりて 一つの物ぞ生り出ずるなり (一部省略)
善と悪と和合してこそ力が生まれる。世の中のいっさいがっさいが霊と体で成り立つ以上、すべて善悪混交が真相だ。
「世の中には神はなにゆえ善ばかりをこしらえぬかと理屈をいうものがあるが、神は大工や左官でないから、指金は持ち給わぬ。善になるも悪になるも、みなそのものの力徳である。それで誠の道におもむいて神力をうけねばならぬ」(『道のしおり』「一巻」)
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