神素盞嗚大神 PART ⑥ 最終回
謀略的岩戸開き
高天原の司がすべてを投げ捨て岩戸にこもっては、世は闇夜となりはてる。万の災禍も起こってきた。そこで八百万の神々が安河原に集まって思金神(おもいかねのかみ)に知恵を傾けさせる。長鳴鳥を鳴かせ、さかきの上枝にみすまるの玉をかけ、鏡をつけ、下には白や青の布を垂らしておき、太祝詞を奏上した。天宇受売命(あめのうづめのみこと)が伏せた桶の上で、足をふみとどかし、胸乳もあらわに踊り狂ったので、高天原も揺れるほどに神々はともに笑った。天照大神は不思議に思われ、岩戸を細目に聞いて声をかけられた。
「私がこもっているので、高天原は暗く、また世の中も暗いと思うのに、どうして天宇受売命は楽しそうに踊り、神々は笑うのか」天宇受売命は答えた。
「あなたよりも尊い神が出られましたので、みな大喜びで笑い遊んでいます」がたしかに岩戸の前には光り輝く女神がいる。それがさし出された鏡に写る御自身とは知らず、思わず戸より出てのぞかれたので、隠れていた天の手力男神がみ手をとって引き出し、布刀玉(ふとたま)命がしめ縄を張って「これより中に、もう戻らないで下きいと申し上げた。
岩戸は聞けこの世は明るく照りわたった。
まるで天照大神の日頃のお疑い深き嫉妬深さをみこして万神謀議の末、道具立ても抜け目なく、まんまと罠にはめて成功した。めでたしめでたしである。しかしこれが高天原随一の知恵者、思金神の出し絞った知恵というのか。それにしては幼稚な・・・そう思った時、逆に胸の暖まる心地がした。この物質世界でこそ人聞は有史以来、悪知恵を研ぎすまさねばならなかった。この程度の策略にころっとだまされる天照大神も、いっそ愛らしい無垢のお心ではないか。
岩屋戸の変以前の高天原は、そうした嘘やいつわりを知らぬ清い別天地であったろう。とすればこの天界に芽生えた邪気の初めは何か。一方的に被害者にされる天界の主宰神天照大神にまったく非はなかったのだろうか。王仁三郎は述べる。
「言霊の鏡に天照大御神のお姿がうつって、すべての災禍はなくなり、いよいよ本当のみろくの世に岩屋戸が開いたのであります。そこで岩屋戸開きが立派におわって、天地照明、万神おのずから楽しむようになつだけれども、今度は岩屋戸を閉めさせた発頭人をどうかしなければならぬ。天は賞罰を明らかにすとはこのことでございます。が、岩屋戸を閉めさせたものは三人や五人ではない、ほとんど世界全体の神々が閉めるようにしたのである。で、岩屋戸が開いたときに、これを罰しないでは、神の法にさからうのである。しかし罪するとすれば、すべての者を罪しなければならぬ。すべての者を罰するとすれば、世界はつぶれてしまう。
そこで一つの贖罪者を立てねばならぬ。すべてのものの発頭人である、贖主(あがないぬし)である。仏教でも基督(きりすと)教でもこういうのでございますが、他のすべての罪ある神は自分らの不善なりし行動をかえりみず、もったいなくも大神の珍の御子なる建速須佐之男命お一柱に罪を負わして、髭を切り、手足の爪をも抜き取りて、根の堅洲国へ追い退けたのであります」(『霊界物語』一二巻三O章「天の岩戸」)
みずから悪神の仮面をかぶり、千座の置戸を負って、怒れる神々に髭をむしられ、手足の爪まで抜かれて高天原から追放される素盞鳴尊。その推理は、国祖国常立尊の御退隠と重なって、何がまことの善なのか悪なのかを、この世の根源にさかのぼって問い直したくなる。
姉神をふくめた万神と地上人類の罪の贖主として甘んじて処刑を受けられた素盞 鴫尊こそ救世主、救いの大神として、王仁三郎は位置づける。もとより国祖は、この岩戸の開き方が気に入らない。筆先はずばり指摘する。「まえの天照皇大神宮どののおり、岩戸へおはいりになりたのをだまして無理にひっぱり出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇受売命どののうそが手柄となりて、この世がうそでつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり」明治三八年旧四月二六日(『大本神諭』第四集)
神代の昔から、こうした嘘や偽りで日の大神をだました上、力にまかせてひっぱり出し、それを手柄として自分たちの謀略を省みようともせぬ高天原の万神たち。神がこうだから、神に誠心がないから、それが地上世界へ写って人民が悪くなる。目的さえよければ手段を選ばぬ今の人民のやり方が、どれだけ世を乱すもととなっているか。
人民ばかりが悪いのではない。神、幽、現界を含めて三千世界を立替え立直す。まずその根本を正してこの世を造り直させよう。これがどうやら国祖の御意志らしい。
さすが剛直をもってならしたお方であり、八百万の神々に煙たがられ、ついに艮へ押し込められたお方だから、岩戸聞きのやり方はもとより、現界の、ことに上に立つ人々の利己と欺瞞にどんなにか我慢がならなかったことであろう。
時は今、再び岩戸が閉められる。明治二五年に国祖は出口直にかかり、第二の岩戸聞きを宣言した。それは立替え立直しと共通項でくくられるものであり、相互に内的関連性を持つといえよう。
ではどうした方法で第二の岩戸を聞くのか。神代の岩戸聞きの過ちを再び繰り返さぬためには、愛と誠で開くよりない。王仁三郎は示す。
「天の岩戸の鍵をにぎれるものは瑞の御霊なり。岩戸の中には厳の御霊かくれませり。天の岩戸開けなば、二つの御霊そろうてこの世を守りたまわん。さすれば天下はいつまでも穏やかとなるべし」(『道のしおり』「第三巻」上)
素盞嶋尊の願っている理想世界とは何か。尊が八岐の大蛇を退治し櫛名田姫を得、出雲の須賀に宮を作った時の歌に集約されている。
「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」
この歌が和歌の始まりといわれる。一般的解釈は字句通り、雲の沸き立つ出雲の地に宮を建て妻を得た感動を歌ったものとされるが、王仁三郎はその歌に特別の密意を読みとっていた。
「出雲」はいずくも、「八重垣」は行く手をはばむ多くの垣、妻は秀妻、すなわち日本の国、だからこの歌は素盞鳴尊の嘆きと決意を示したものとなる。
「伊邪那岐尊から統治をゆだねられたこの大海原、地上世界には八重雲が立ちふきがっている。どの国にもわき立つ邪気が日の神の光をさえぎるばかりでこの世は曇りきっている。秀妻の国の賊(八岐の大蛇)は退治したものの、さらにこの国を八重に閉じこめている心の垣 その八重垣をこそ、取り払わねばならぬ」
人類の歴史は、いわばいかに頑丈な垣根をめぐらすかに腐心してきた。神代の昔、すでに姉と弟の間にも越えがたい垣根がはばんで文明が開化すればするほど、われわれは多くの垣根を作って生きている。
国と国が、人類同志が、民族間、階級間、その上宗教の違いまでが生み出す心と心の垣。そのさまざまな八重垣を取り払い、焼き減ぼすのが、素盞鳴尊の目ざす火(霊)の洗礼、「みろくの世」ではないだろうか。
立替えを 世人のこととな思いそ 立替えするは己が御魂ぞ
みろくの世 早や来よかしと祈りつつ 岩戸の開くもく時を待つかな
三千歳の 天の岩戸も明烏(あけがらすみ) 時きわたりつつ世をきますなり
八束髭 手足の爪をはがれつつ 血をもて世をば清めたまいぬ
八束髭 生血と共に抜かれたる 瑞の御魂は戸川町の天弛の岐美(きみ)。
『霊界物語』一二巻二五章「琴平丸」 二八章「三柱の貴子」・二九章「子生の誓」・三O章「天の岩戸」、『道のしおり』「第三巻」上、『大本神論』「第二集」・「第三集」・「第四集」・「第五集」
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