ヨリコ姫の改心~浄土真宗と霊界物語~
ヨリコ姫の改心
~浄土真宗と霊界物語~
〔令和2年10月20日 藤井盛〕
出口信一先生の講演集「救世(ぐせい)の船(みふね)に」の巻頭に、霊界物語第六十七巻第五章「浪の鼓」の一節が記してある。花香姫が大神の神徳を讃美した歌の一つである。
救世(ぐぜい)の聖主に遇ひ難く
瑞霊の教(をしえ)聞きがたし
神使の勝法(しようほふ)聞くことも
稀なりと云ふ暗(やみ)の世に
聴くは嬉しき伊都(いづ)能法(ののり)
〔第六十七巻第五章「浪の鼓」花香姫 午〕
救世主たる瑞霊に遇うことも、またその御教えを聴くことも稀な闇の世であるのに、それがかなう喜びを歌ったものである。
姉のヨリコ姫もまた、苦しみの中にある我々を救う主神伊都能売大神(いづのめのおおかみ)を讃美している。
生死(しようじ)の苦(く)海(かい)は極み無し
久永(とは)に沈める蒼生(さうせい)は
伊都能売主神(いづのめすしん)の御船のみ
吾らを乗せて永遠(とことは)の
天津御苑(みその)へ渡すなり
〔ヨリコ姫 午〕
出口王仁三郎聖師の絵が、講演集「救世(ぐぜい)の船(みふね)に」の表紙に用いられている。海に浮かぶ船が描かれ、我が家にも同様の色紙がある。大神による救いが船で象徴してあるのだと思う。また、第五章「浪の鼓」の末尾には「救世(ぐぜい)の御船(みふね)」とも記されている。
ところで、第五章「浪の鼓」には、花香姫とヨリコ姫の歌がそれぞれ十二ずつ、合計二十四ある。実はそれらの歌は、浄土真宗の開祖親鸞聖人が著した和讃【註1】を本歌(もとうた)としている。例えば、ヨリコ姫の歌の本歌は次のとおりである。
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
彌陀(みだ)弘(ぐ)誓(ぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
〔高僧和讃 龍樹菩薩七〕
私は、霊界物語の二十四の歌と和讃の本歌との対比表を作成した。二つを除いた二十二の霊界物語の歌について、和讃の本歌を明確に確認することができた。
【註1】仏祖・高僧の教法や徳行を讃歌したもの。「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末浄土和讃」「太子和讃」「別和讃」など…『親鸞和讃集』 岩波文庫
〇善と悪は水と氷の如く
さて、ヨリコ姫に次の歌がある。
愛と善との神徳と
虚偽と悪との逆業(ぎやくごふ)は
水と氷の如くにて
氷多きに水多し
障(さはり)多きに徳多し
〔ヨリコ姫 卯〕
善と悪とが水と氷とに対比され、しかも、悪に対応する氷が多いほど愛と善の神徳が多いとある。これは一体どういうことなのか。以前から私は、この歌の意味がよくわからなかった。本歌となる和讃は次のとおりである。
罪障功徳の體となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおおほきに徳おほし
〔高僧和讃 曇鸞和尚二○〕
岩波文庫の『親鸞和讃集』には、こう解説がしてある。
罪障が功徳の本体となる。それは罪障と功徳の関係は氷と水の如く一体である。氷が多いので水が多い、そのように罪障が多いので功徳が多い。(罪障=煩悩によって作る罪業)
虚偽や悪が本体となって、愛や善を生み出すということなのであろうか。霊界物語第七十二巻第七章「鰹の網引」に、これと似たことが説いてある。
「改心すれば、盗賊であった者の方がより信仰が進んでいる」と宣伝使は述べる。
照国別「ヤアこの玄真坊殿はずゐぶん悪い事も行つて来たが、お前に比べては余程信仰が進んでゐるよ、すでに天国へ一歩を踏入れてゐる」
照公「それや又どうしたわけですか。吾々は未だ一度も大した嘘もつかず、泥棒もせず嬶(かか)舎弟(しやてい)もやらず、正直一途に神のお道を歩んで来たぢやありませぬか。
それに何ぞや大山子の張本、勿体なくも天帝の御名を騙(かた)る曲神の権化ともいふべき行為を敢てした玄真坊殿が天国に足を踏込むとは、一向に合点が行きませぬ」
〔第七十二巻第七章「鰹の網引」以下同じ〕
正直一途の自分より、どうして曲神の権化が天国に足を踏み込んでいるのかという照公の疑問は当然と思える。宣伝使の照国別は続けて言う。
照国別「大なる悪事を為したる者は悔い改むる心もまた深い。真剣味がある。それゆゑ身魂相応の理によつて、直ちに掌(てのひら)をかへすごとく地獄は化して天国となるのだ。
沈香も焚(た)かず庇(へ)も放(ひ)らずといふ人間に限つて、自分は善人だ、決して悪い事はせないから天国に上(のぼ)れるだらうなどと慢心してゐると、知らず識らずに魂が堕落して地獄に向かふものだ」
大なる悪事をした者ほど改心の度合いが大きいので、天国に上(のぼ)れるというのである。我々は、普通、悪いことをしなければ天国に上れると思うのだが、そうではなく、かえって魂が慢心によって堕落してしまうというのである。さらに
「悪い事をせないのは人間として当然の所業だ。
人間は凡て天地経綸の主宰者だから、此世に生れて来た以上は、何なりと天地のために神に代るだけの御用を勤め上げねばならない責任をもつてゐるのだ。
その責任を果(はた)す事の出来ない人間は、たとへ悪事をせなくとも、神の生宮として地上に産みおとされた職責が果されてゐない。それだから身魂の故郷(ふるさと)たる天国に帰ることが出来ないのだ」
人は何より天地経綸の主宰者たるの職責を果たすことが重要で、たとえ悪いことをしても改心すればよく、何もしないことが一番よくないということである。
0コメント