大地の母 ②
「しんどかったら、もう寝なはれ」
宇能は思わしげに娘賀るにいった。貧しい夕餉の半ばである。賀るはうなづき、重たげに椀を置くと、足音も立てず奥の長七畳の間に消える。宇能は夫吉松と眼を見合わせて吐息した。
次女ふさが亀岡町西竪の岩崎家に嫁いだのは二十三歳の春。つづいて十九歳の三女世祢が、養女に望まれて伏見の叔父の船宿へ手伝いがてら行った。それからもう丸二年に近い。家にいる長女賀るは今年三十二歳、とうに婚期を逸した。体が弱く、器量もよいとは言えぬ。
めっきり老いの深い背をまるめて、かさかさと飯をかきこむ吉松。土間の片隅で丹念に磨いた鎌と鍬の、はがねの色が冷たく光る。見まわすあたりはくすんで暗い。時おりはじける囲炉裏の火と背戸の榧の梢を吹きすぎる風のほか、音もない。
宇能は箸をとめて、腰を浮かした。人の気配が動いて、板戸が鳴った。吹きこむ雪にまじって、白い顔がのぞく。
「お世祢……」
喜色と不安をつきまぜて宇能は末娘を迎え入れ、肩先につもる雪をはらった。そわそわと肥松を持ち出し、吉松は囲炉裏に明るい炎を上げる。叔父の家でととのえたのか、黒地に紅の細縞の着物。黒繻子にたまのり縮緬の腹あわせ帯がよくうつる。娘らしさがはんなり家中に匂った。
「お賀る姉さん、どこおってん」
「いま寝たとこや。ぐわい悪いんやろ、起こさんとき」
まだ独身の姉の姿の見えぬことにむしろほっとし、世祢は草鞋をぬぐ。母の出してくれた濯ぎの水が、赤くむけた足の親指の根本に激しくしみる。
こういう時、男親の吉松は出番がなくて落ち着かない。
「飯、まだやろ。早う食わせたれ」
「いらん」
思いつめた娘の眼つきに、吉松と宇能はどきっとした。世祢の頬も手も青白く冷えて、こわばっている。宇能は熱い番茶をつぎながら、さりげなく聞く。
「年の暮れで忙しやろに、よう帰してくれはったなあ」
「暇もろうて来たんや」
「暇……? お世祢、暇いうもんは、いくら親戚の船宿かて、お前の勝手で願うてもらうもんやない。それともなんぞ落ち度があって……叱られて出されて来たんやないか」
咎めるような母の語気に答えず、世祢はうつむいた。手の中で番茶が揺れ、膝に散った。うっと口元を押え、部屋の隅にいざって背を向ける。
「歩き通しでくたびれとんのやろ。ごちゃごちゃ聞かんと、早う寝かしたりいな。話は明日でええやんけえ」
吉松がいたわるように口をはさみ、それが手くせの、賽ころを湯のみの中にほうりこんで、丁と伏せる。
娘の波立つ背をみつめ、宇能は鋭い不安に胸をえぐられた。
「もしか……赤ん坊こさえたん違うか」
びくっと細い肩先がふるえる。否定もせず、身をもんで、世祢は筋ばった母の膝に伏した。懐妊に気づいてから、どれだけ思い悩んできたことか。わが身を処する道に窮して、一途に母を求めて帰ってきた。が、母に問いつめられると、世祢は、秘めてきた事柄のあまりの重さに堪えかねてすすり泣いた。宇能は声をおさえた。
「おなかの子の父は……その男はついてこなんだんか」
「東京へ……もう京へは帰らはらへん。あちらで奥さまを……」
「子のでけたん知って、捨てて逃げくさったか」と、吉松は顔色をかえた。
「知ってはらへん。母さん、そんなお方やないのや」
「あほんだら」
頭から吉松が怒声をあびせかけた。
「そんなお方もへったくれもあるけえ。何さまか知らんが、腹の子の父親なら、江戸でも蝦夷でも行って、わしが連れもどしてきちゃるぞ。ええか、お世祢、びすびす泣かんとけ。俺があんじょうしたるわい」
激昂しながら、父も母も姉に聞かせまいと、つとめて声は低い。世祢は高ぶる感情を必死におさえて、涙をはらい、坐り直した。
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