神島開きと神武天皇 (2-2 最終回)

○出口聖師の神島開きのお軸

 徳重高嶺氏の日記の続きが、また興味深い。

それより畝び山に参り 土米をとりて大阪に帰る その折 武の内のすくね 神懸になり 神島をさがす事となる

まず、この畝傍山神社の土米は「敷嶋新報」にも記載がある。また、「神島ノート」(大本教学第十五号 出口三平氏)にも、大正六年五月の神島参拝の帰途、出口聖師が肝川に立ち寄られて、大量の土米を持ち帰られたことが記されている。

次に武内宿禰(たけのうちのすくね)の神懸かりである。「大阪に帰る」「その折」とあるので、大阪に帰って出口聖師に武内宿禰の神懸かりがあり、神島探しが始まったということなのであろう。

実は、これに通じるような出口聖師のお軸を、私は目にしている。大阪の難波出張所で、出口聖師に武内宿禰の神がかりがあり、しかも日付から、神島開きの一連の動きの中で書かれたと思われるものである。

お軸は、一つ目の旅、平成二十八年七月二十四日、鳥取大山であった「世界平和祈願祭」に夫婦で参拝し、直会があった鳥取稲吉支部長の秋藤素美子さん宅にあった。

その後、このお軸が大本教学第十一号に取り上げてあることを知った。次のとおり読んであった。

大正五年五月十日

難波出張所神前にて

武内宿祢命王仁に

かかりてよめる

  なにはかた神のみ船を漕ぎゆけば

  日月輝く龍の宮居に       王仁

まず、大正五年五月十日という日付だが、今回私が参考にした神島開きに関した資料には出て来なかった。そこで、資料にある日付の中に五月十日を入れてみた。

〔神島関係年表〕

◇大正5年 (旧暦)

3・19 金竜海開掘工事竣工

4・5(3・3)聖師、橿原神宮、畝傍山に参拝

  夜 難波分営で祝宴〔敷嶋新報〕

4・13 聖師の左頬より神島形玉石

《5・10》難波出張所神前で神懸かりのお軸

5・11 聖師、肝川へ〔大本略年表:愛善世界社〕

6・5(5・5)神島発見(村野・谷前氏)

6・25(5・25)神島開き・神霊を奉じて綾部竜宮館へ   ①渡島

9・8 聖師、神島で神宝  ③渡島

10・4(9・8)開祖、聖師一行神島へ 

10・5(9・9)聖師がみろく様の筆先 ④渡島

◇大正6年

5・25 聖師ら百余名、神島参拝

5・28 聖師、肝川で多量の土米〔神島ノート〕

先に、出口聖師が神島参拝の帰りに、肝川から土米を持ち帰られたことを記した。大正六年五月二十八日である。肝川は、現在の兵庫県川辺郡猪名川町にあるが、神島開きの活動範囲にある場所ということである。

この肝川に、出口聖師が大正五年五月十一日に行かれた記録があった。そうすると、前日十日に、出口聖師が難波出張所に行かれたとすることは可能である。また、神島発見の六月五日(旧五月五日)より前で不自然さはない。

次にお歌の意味である。大本教学第十一号で木庭次守氏は「陸(あげ)の竜宮」と題して、次のとおり説明している。

みろ九の神の使神武内宿祢は…神地の高天原と定められた竜宮館の月日の神の神都へ導かれる神策を発表された

 「日月輝く龍の宮居」について、「神地の高天原」とか「龍宮館」、「神都」とあるので、綾部の竜宮館を指しているのであろう。

確かに神諭にも、沓島・冠島開きにより、竜宮の乙姫の宝を綾部の「陸(あげ)の龍宮館」に持ち運ぶ(註14)とのお示しもあり、「日月輝く龍の宮居」とは、綾部の竜宮館を指すと思われる。

ところで、歌の冒頭の「なにはかた」は地名であるが、残念ながら木庭氏は触れていない。

 (註14)龍宮の乙姫殿が…海の底に溜めて置かれた御宝を、陸の龍宮館の高天原へ持遊(もちはこ)びて

〔伊都能売神諭大正七年一二月二二日〕

○生國(いくくに)魂(たま)神社

さて、「なにはかた」について、「なには」は、難波・浪速・浪華と書き、大阪市およびその一帯の古称で、「難波潟」は大阪市付近の海の古称(註15)とあった。その語源は神武天皇東征にある。

難波の碕(みさき)に到るときに奔(はや)き潮(なみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ひぬ。因りて名(なづ)けて浪速(なにはや)の国とす。亦、浪花(なみはな)といふ。今難波といふは訛(よこなま)れるなり 

〔日本書紀 神武天皇東征の段〕

  難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国とした。また、浪花という。今難波というのはなまったものである。

〔日本書紀全現代語訳 講談社学術文庫 宇治谷孟〕

ところで、出口聖師の初めての宣教は、「なには」たる大阪である(註16)。また、大正九年八月、宣教のため大阪梅田の大正日日新聞を買収され、大正十年二月十二日、第一次大本事件で出口聖師が拘引されたのもその本社である。

また、昭和八年十二月、天祥地瑞第七十七巻と七十八巻が口述されたのも大阪分院の蒼雲閣である。ちなみに第七十八巻には十二月二十三日の皇太子誕生の号外が付記されている。

 このように出口聖師は大阪にとてもなじみが深いが、聖師は大阪市天王寺区にある生國(いくくに)魂(たま)神社によくお参りになられたという。

 社伝によれば、神武天皇の東征の折、難波之碕に、神武天皇が国土の平定安泰を願って、大八洲(日本列島)の御神霊で国土の守護神である「生島大神(いくしまのおおかみ)・足島大神(たるしまのおおかみ)」を祀られたとある。

 大地の神霊を厚く祭る神武天皇の信仰姿勢は、霊界物語にあるとおり(註18)「大地の神霊を金勝要神とし、大地の霊力を国治立命、また、大地の霊体の守護神を神須佐之男大神として祀る」ことにも通じている。また、国祖国常立尊が「日本の土地全体はすべて大神の御肉体」(註19)で、「地球世界の総守護神」(註20)であることにも通じる。

なお、生島(いくしまの)大神(おおかみ)の「生(いく)」や足(たる)島(しまの)大神(おおかみ)の「足(たる)」は、動物の本質・流体「生魂(いくむすび)」や植物の本質・柔体「足魂(たるむすび)」(註21)と関係するのではないか。

こう並べてみると、出口聖師の教えにも通じる生國魂神社に、出口聖師がよくお参りになられていたのも当然のことのように思われる。

(註15)旺文社 古語辞典

(註16)霊界物語第三十七巻第一三章「煙の都」

(註17)温故知新(二十七)大阪分院・蒼雲閣

〔神の国 平成五年十月号〕

(註18)第十一巻第二四章「顕国宮」

(註19)第一巻第二一章「大地の修理固成」

(註20)第四巻第四五章「あゝ大変」

(註21)第六巻第一章「宇宙太元」

  ○なにはかた(難波潟)

生國魂神社の社伝に「難波の碕に」とあるので、大神を祀られた所は、当時、海である「なにはかた」(難波潟)に面していたのであろう。

 神武天皇は、瀬戸内を海路で来て「なにはかた」に到着し、一旦畿内に上陸するものの退却して、再び「なにはかた」から海路で紀伊半島を大迂回している。そして、熊野から上陸して畿内へと向かい、饒速日が長髄彦(ながすねひこ)を討って大和朝廷が成立した。このように「なにはかた」は、神武天皇の東征において重要な位置を占めている。一方、お軸は、

なにはかた神のみ船を漕ぎゆけば

日月輝く龍の宮居に 

とあり、素直に読めば、大阪の海「なにはかた」から「神のみ船」を「漕ぎゆけば」、綾部の「日月輝く龍の宮居に」至るとなる。だが、大阪から綾部は陸路なのでこれはおかしい。しかし、神島から船で出て「なにはかた」の海を漕いで、大阪を経て陸路で綾部に至るというのであれば、おかしくはない。

ただ、確かに経路も大事だが、「神島はどこにあるか」のお示しである。艮の金神は日本海の沓島に御隠退されたが、坤の金神は「なにはかた」のある瀬戸内海に御隠退されたというお示しなのであろう。

 出口聖師は、戦後、最後の御巡教で紀州に行かれた。帰りは陸路だが、行きは高血圧にもかかわらず、「紀州に行かねばご用のすまぬことがある」と言われ、昭和二十一年七月十六日、大阪から船で紀州に向かわれている(註22)。綾部からわざわざ大阪まで行かれ、「なにはかた」を出発して海路で熊野に至るという神武天皇と同様のルートをとっておられる。

 このように「なにはかた」は、出口聖師と神武天皇の共通のキーワードである。「龍の宮居」もまた、神武天皇の母「玉依姫」との共通のキーワードである。

(註22)大本七十年史下巻〔七五二~七五四頁〕

 

○神武天皇祭と国見山遙拝所

 出口聖師は紀州御巡教と同じ昭和二十一年に、「ずっと以前に見た夢の山に寸分違いはない」(註23)と言われて、舞鶴市大丹生に行かれて冠島・沓島の遥拝所を定められた。行かれた日も神武天皇に関係しており、神武天皇崩御の祭祀「神武天皇祭」と同じ四月三日である。

 また、出口聖師はこの遙拝所を「国見山」と命名されたが、これも神武天皇が即位後、「素晴らしい国を得た」言って国を眺めた嗛(ほほ)間(まの)丘(おか)の別名「国見山」と同じである(註24)。

 確かに、紀州への御巡教や遙拝所の命名等について、神武天皇との関係を聖師が明言したものを、私は目にしてはいない。

 しかし、これまで述べてきたように、神武天皇と国祖(=塩土老翁)、天祖(=饒速日=聖師)の三者の親密性からすると、当然の帰結のように思う。

 また、神島への四回目の渡島で、出口聖師が無言でご自身のみろくの大神たる御神格を皆に示された(註25)ように、我々もまた、無言で行われるお示しから悟る必要があると思う。

 なお、敷嶋新報の神島開きに関する記載は、日本書紀の神武天皇東征から始まっているが、その終わりもまた、日本書紀の神武天皇の歌で締めくくられている。

 歌の意味は「粟(あは)の中にまじった一本のニラ(かみら)を抜き取るように、敵の軍勢を打ち破ろう」というものである。長髄彦(ながすねひこ)に命を奪われた兄の五(いつ)瀬(せの)命(みこと)の仇(かたき)をとりたいという神武天皇の無念さに出口聖師も同情されている。

(註23)愛善苑第三号〔昭和二一年七月一日一四頁〕

(註24)通証は本馬即ち嗛間の転とし、本馬山の

南に位する国見山を嗛間丘とする。

〔日本書紀(一)岩波文庫 校注二四三〕

(註25)出口聖師は綾部出発より四日間沈黙。

〔後記〕

 神島開きと神武天皇に関する資料の断片をつなぎ合わせて、私なりに推測しながら文章を作成してみた。漠としたものだが、一定の雰囲気は醸し出せたように思う。ただ、天皇制にも関わることで、いろいろとご意見があろうと思う。

 また、出口聖師のお軸が大本教学にあることを教えていただいた出口三平さん、生國魂神社など大阪市内の出口聖師ゆかりの場所を案内していただいた北川雄二さんと成瀬昭さん、また、敷嶋新報や徳重高嶺氏の日記などの資料を提供していただいた愛善荘の皆さんに、この場をお借りして心からお礼を申し上げたい。ご協力によりこの文章を書くことができた。

 最後に、妻を祭典などに連れて行くためにしたことなどを少し。

一つ目の旅、大山「世界平和祈願祭」に連れて行くため、出口聖師が霊界物語の口述をされた皆生温泉に前泊した。この旅で出会ったお軸が今回の文章のきっかけとなった

二つ目の旅、大阪分苑春季大祭では、前日に京都の観光を入れ、清水寺から産寧坂(三年坂)、高台寺のルートを歩いて大阪梅田に宿泊した。ただ、妻は大祭には参拝せず、西の宮の娘と過ごした。この旅で生國魂神社を参拝し、出口聖師と神武天皇との関係に関心を持った。

 三つ目の旅、妻の膵臓がんの精密検査を控え、以前から決まっていた西宮の娘の家に行く前に、奈良の吉野と橿原神宮に行った。出口聖師が行かれたところで、前から行っておきたかった。また、食欲がずっとなかった妻が、名物の柿の葉寿司を一人前食べたのは吉野の山の御神徳だったと思う。この旅がなければ、今回の文章は書けなかった。

 妻が、六十歳で逝ってしまうとは思いもしなかったが、未信徒の家から嫁いで来て、大本関係のところをひととおり連れて行った。今回の文章が書けたのも妻がついて来てくれたおかげである。これで、妻から出された宿題が済んだように思う。

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